ソシオニクスFi 質問
過去1日の間に、他の人との関係にどのような変化があったのかを教えてください。
私にはこの把握は難しい。
そんなに日にち単位で関係性が変わるのか?
昨日友達だと思っていたのに今日は敵になってるとか?‥もしそうならちょっと怖い世界。
私は生き物はみんな友達だし、宇宙で繋がる信頼は永遠に変わらないと思ってる。
繋がってるんだから皆に責任を持たなきゃならないし、直観は資源だから”特別な誰かのために”贔屓するわけにいかないし、そもそも直観情報は私のものでもないし、記憶は継承されるわけで‥もう私はその時点で倫理的責任のプレッシャーを受け続けている。
情報をどう扱うか、私に任されてるということ。
物凄く責任を感じるし、舐めた倫理じゃ到底扱えそうにない事は小さい頃から重々承知だ。
直観を研ぎ澄ますためにも。
「同情」(シンパシー)という言葉の意味を解説してください。
「同情」はどのようにして表現すべきだと思いますか?また、その逆にどのような表現は避けるべきだと思いますか?
あなた自身は「同情」をどのように表現することが多いですか?
シンパシーとは、同情や憐れみの表面的な感情共有を指す言葉で、空気を読み合ったり感覚的な雰囲気の同調であって感情表層で波長を合わせるようなもの。
その場から物理的に離れれば(例えば葬式が終わってしまえば)或いは同情を寄せる対象から目を逸らせば感情同調は終わる、意外とあっさりしたものではないかと私は認識している。
これを大事にする人は、その影響が長く続き、耐えられなかったり、自分が抱いた同情そのものが悩みの種になるんだろう。
その点、私はあっさりとして冷淡だなと自分で思うこともあって、どうやって同情するんだろうとか、まわりの反応から「泣いた方が良いだろうか」と逆に気に病んだりもする。
私は他人のありのままの魂を受け入れたいし、感情には同情よりも共感したい。
だから誰かや何か悲劇的な映像を見て「可哀想」と思うよりも「今この状況をどうやって改善するのか」を考え、どうしても目的に意識が向く。
同情は共感とは違い、上下比べ合う姿勢でもあるからだ。同情し合う慰めや救済、妄想じみた全体主義的な理想や階層的な宗教、慰め合う同調社会を私は問題視している。
同調は排他や差別を生み、除け者にされた人は孤独になる。
しかしその孤独も「同情」によって慰められるため、結局は同調し合い同情できない者には排他的になるだろう。
ある時には加害者が被害者になり、立場が逆転し、ぐるぐると同じ椅子取りゲームの中でポジションを争いする構図は謎だ。
日本社会は閉鎖された全体主義が下地にあって、意思の欠落によって個人主義に見えているだけだと私は考えていて、リアルに背を向け、自分に閉じこもってしまえば、心の安心安全を守るシステムに頼り、画面に向かって自分の言いたい事を言い、同情し慰め合う仮想が慰めや精神安定剤の役割を果たす。
今後私達自身が機械化して才能だとか、能力を自由にセレクトできる時代になるかもしれないし、もっと自分に都合が良くて、もっと従順で精神を満たしてくれる友人、理想の恋人を現実にしてくれる未来がくるだろう。
人間関係を構築せずとも孤独な人達の癒しは、宗教とはまた違う形で新しいビジネスになると思う。でも‥どうなのかな。
私は、人間の人生は精神の成長と学びだと思っているけれど都合の良い仮想世界や発明は、その学びや成長の過程を最初からなかったことにしてしまうだろう。
そうなれば、もう自分が生きてるのか死んでるのか分からないだろうし、益々意思も失っていくだろう。意思決定オートモードの方が楽だから。
私達はもう既に飼い慣らされた独房の中にいるし、誰もそのことに気が付かない。
何も見えていない。無関心さだけがあるね。
つまり同情とは無関心さだ。
可哀想に(私じゃなくて良かった)なのだ。
自己疎外に繋がるのがよく分かるだろう。
社会には、人としての行動規範や人間関係に関する規範があると思いますか?
上記の質問に「はい」と答えた場合の追加質問ですが、あなた自身はそれを遵守していますか?
常に人間関係の規範に従うべきだと思いますか?また、そう思うのはなぜですか?
私は規範は参考にはするけれど、自分のビジョンと辻褄の合わないことは一切したくないというだけ。逆に自分の倫理で生きる人は、そこに確かで譲れない信念があるんだろう。
それは私が見習うべき性質だと思うし、そういう人に敬服する。
人や社会の中の“行動規範“について観察した時に、方針は立派だが有言実行できているのか、という点で疑問に思うことは多々ある。
「それは正しい」とか「そういうものだ」大多数が支持するものになぜそのまま従っているのかと不思議。
自分の言動についての責任はどうなんだ?という疑問。
道徳にただ従っているのなら自分の意思に基づいた行動とは思えない。
トロッコ問題のような倫理的危機に直面した時に、自分の責任において納得した選択ができるだろうか。
『イェルサレムのアイヒマン』について。
アイヒマンはホロコーストの中心人物で、ゲシュタポのユダヤ人移送局長官で、アウシュヴィッツ強制収容所 へのユダヤ人大量移送に関わり、人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられている。
この裁判を傍聴したハンナ・アーレントはアイヒマンを幽霊のようだと形容し、彼自身ユダヤ人に憎悪はないと記した。
殺人機関に従っただけで移送先にも関心がない。
人を死へと送り込んだが責任はないと考えてる。貨車が発車したら任務終了だった。
彼は自分を国家の忠実な下僕とし、『忠誠こそ名誉』総統の命令が彼の法律であったため彼に罪の意識は全くなく“法律に従っただけ“だと。
アイヒマンの言葉がある。
規範や法律、それを確かな自分の拠り所(土台)にしてもいいのだろうか。
ヒトラーはいわば絶対的な宗教(神)で、アイヒマンは宗教に従った信者だということだ。
従うだけの人間は善悪判断、倫理感は当然麻痺する。規範が正義なら、従わないものを排除すれば良い。異教徒は必要ない。
ヒトラーの忠実な部下は、平凡な人間、それなりに善良で、生きることにも生真面目で実直な性格の人も多い。
アウシュビッツ強制収容所の所長を務めたルドルフ・ヘスの獄中手記も読んだ。
『世人は自分を血に飢えた獣、サディストとみなそうとするだろうが、自分もまた「心をもつ1人の人間だった」のであり「悪人ではなかった」』と。
人間であることを拒否した人間は、大切な質、良心までも放棄した。思考する能力の欠落。
その結果モラルまで判断不能となった。
思考できなくなった平凡な人間が残虐行為に走る理由にアーレントは恐れずに挑んだ。
被害者の立場であるはずのユダヤ人指導者についても「果たしてそれが最善であったのか」と厳しく追求し、このことで、彼女が以前から親しくしていたシオニストメンバーはもちろん、社会からも反発を買った。
客観的事実と隠された真実にこだわる彼女の厳しい姿勢は、私をとても励ました。
根本的な問題は何か。
私は目を逸らさずに戦うし、悪魔だと言われようが立ち向かう人を尊敬する。
時代が理解できないだけだから。
彼女は、スターウォーズのオビワンと同じように義務を果たしたんだと私は思った。
本当の正義とはなんだろう?
果たしてそんなものがあるのかについて。
「みんなそうするもの」ルールや規範で動けば、自分で自分の言動と根拠を説明できず、無責任になるじゃないか。
そういう疑問が常にある。
私はこれについて自分で考え続けることを諦めたくない。分からないから分からないなりに理解したいし、倫理のグラデーションを私はぜひとも知りたいし色んな人に問いたいと思う。
「倫理軸に沿った最善を目指す」姿勢であるなら納得するし、他人に任せず、自分で学び構築していくものであると考えていて、道はいつも方向性を吟味し試行錯誤しながら最善を選ぶ努力を怠ってはいけないだろう。
自分の価値観と信念と原則に従って行動しているか。良心に従うこと、魂の一貫性は大事にしたいな。私が大事にするのは精神性。
「モラル」と「インモラル」という言葉がありますが、何を持って「これはモラルを守っている」「これはインモラルである」という判断の違いが生じるのだと思いますか?
その辺りの区別や判断は難しい。
私は自分の言動に辻褄が合うかどうかを見ているが、善悪判断が難しいため評価が難しい。
私自身に判断基準やルール的な土台があるわけではないから違反しているのかどうかが実際よく分からないところもある。
あなた自身は「モラル」と「インモラル」をどのように理解していますか?また、あなたの理解は、他の人々の理解と同じだと思いますか?
あなたは自分の「モラル」と「インモラル」の理解が正しいかどうかを評価できますか?
私にとって大事なのは相手は何を基準に意思決定しているのか、意思決定に責任を持ち自分の価値観を知っているのか、だ。
私はビジョンに従い最善を尽くそうとするだけで、モラルかインモラルかでは判断しない。
経験から公共マナーはわかってきたけれど、他人に「マナーが悪い」とか「モラルがない」など、そういう形で指摘できない。
職場の駐車場や周辺の清掃活動に参加してタバコの吸い殻やペットボトルのゴミが意外と多いことに気がついた。
ゴミ箱ではない所にゴミを捨てる人が多いんだなということ。
あるべき場所に戻せない、自分が扱う物に対して責任がない人間が多いってこと。
物の貸し借りにしてもそうで、借りたものを無くしたなら弁償するし、謝って許されるとは思わない。借りた責任は私にあるから。
『あるべき場所に戻す』片付けや収納に関してはソシオTeに該当するようで、私はFiというよりTeで「(あるべき場所へ)片付けろ」と指示する方だなと。
出したら元にしまえ、借りたら返せ、紛失したら弁償しろ、食べたら片付けろ、ゴミはゴミ箱に捨てろ、ポイ捨てをするな、
こういうのは「元に戻す」という意味で私の中で当たり前だった。放置して誰かがやってくれるだろうという期待は、無責任じゃないだろうか。
不思議だな‥と思う。
ゴミの分別はラベルを見ればわかる。
ゴミ箱かは見ればわかる。
なのに道や公共の場所に捨てるって‥なぜだろう。手を離した瞬間に今まで持っていた物に責任がなくなる軽率さ。
こういう所で仕事に対する責任感も分かるし、主張や態度の一貫性や言動に辻褄が合うか等、私はモラルというより、自分の仕事と責任に対して厳しいとは思う。
同時に相手が大切にする基準は何かを知りたい。
犠牲者になりたいわけではないけれど、
無抵抗な人間を前にして、或いは危機的状況に陥った時、人間は自分の欲望とどう向き合い、どう判断するのか、好奇心からそれを知りたくて相手に身を委ねてみようかな、という倫理に対する実験的な傾向がある。
これは一見ソシオFi的にとても強気な態度に見えるかもしれないけれど、私は「強い意思の力と倫理的判断」を知りたいし、良心があるなら魂の輝きを私に見せて欲しい。
真に生きてるのかどうか。
この倫理的判断と意思の力にこだわる辺りは、槙島聖護と考えていることが似てる。
人間の闇を知りたい。
闇を理解するのは闇にしかできない、毒を知るには毒を進んで喰らわないといけない。
私自身悪事をなさないためには、悪を知り尽くし理解する必要があるからだ。
私は闇に顔を背けたりはしないし、善には善の悪には悪の理由がある。
感情には意思決定を予測できない面白さがある。
倫理や法を逸脱する犯罪心理に関心があるのはそこからだ。何がキッカケで狂気が、闇の本性が顔を出すのかを知りたい。
誰かがあなたに対して明らかにネガティブな態度を示しています。あなたはこういう時、どのような反応をすることが多いですか?
ネガティブな態度に気が付いてもあまり気にしない。その態度の背景には理由があるので、私は理由を考えて因果を結んでパターン化に役立てている。
私に対してネガティブだろうがポジティブだろうが、どう思ってくれても相手の自由で、好きにしてくれたらいい。
私に向けられたものでなくても、ネガティブ感情を撒き散らし愚痴ばかりの人に「また言ってるな」とうんざりするのはよくある。
この辺もゴミの話と同じで、撒き散らしている自覚がない。改善や成長よりも毎回同じようなダラダラした世間話、同じ展開。
私に慰めや同情を期待されても困る。
ガンマクアドラコンプレックスには、『感情的な圧力は残酷な心理的恐怖』と書かれていて、これは遠くに感じるネガティブな空気感よりも、もっと直接的な自分に対する怒りや嘆きを想定しているのだろうと思う。
私は空気や雰囲気はソシオFe脆弱もあって認識しづらいのもある。
直接的な激しい感情が私に向けられた場合、私は「テレビの音を消したかのように」別世界に身を置くのはあって、ネガティブもポジティブも一時停止のようになる。
立て直すために距離を置いたり、淡々と状況を観察し相手の感情が落ち着いたタイミングで冷静に話すようにしてる。
その姿勢が、檻の中の動物を眺めると表現しているのかもしれない。私の飄々とした態度が舐めてる、馬鹿にしていると感じるようでさらに怒りを買うこともある。
この場合「私自身がどう感じているか、どう思っているか」相手側への寄り添いと感情理解を期待しているんだろう。
でも私は「自分がどう感じるか」で応えられなくて「最初に話した通りだ」とか「必要なことはもう言った」を繰り返し、何回同じ説明をさせる気なんだろう?分からないのか?となる。
「こちらを納得させたい(感情圧)」でこられても個人的な浅い経験則の話なら「それは〇〇の理由で違うと思います。なぜなら‥(説明)」と、感情と論理の平行線。
証明→聞かれるので説明→証明→聞かれるので説明♾️ →話が通じないなとなりやすい。
「相手は説明を聞きたいわけじゃない。自分の感情を伝えたら良い」ESIの友達はこのようなアドバイスをくれるし、実際、間に入って通訳のように助けてくれる時もあり、Fi優位の人を大変ありがたいと思う。
上記のような場合、あなたは「あなた自身が抱いた、相手に対するネガティブな態度」を、言葉や振る舞いを通して、相手に伝わる形で表現することはできますか?
振る舞いは難しく、表面的な物真似に対する嫌悪からぎこちなくなる。態度が芝居がかってて、嘘か真か誤魔化しているように思うからだ。
私には振る舞わなくて結構だし言い方とか敬語も気を遣わなくて良い。私は他人の振る舞いがあまり分からず悪意にも鈍感すぎる。
嫉妬や独占欲を引き出そうと裏工作されたり、無視されたり、イジメのようなものも私はあまり影響を受けない。
そもそも善悪がよく分からないから嫉妬も独占欲も分からないし、集団が私の居場所でもない。
集団のあれこれに影響されない私の飄々としたところが珍しいと興味を持ってくれる人もいるが、枠に囚われない一匹狼もいることをぜひ知ってほしい。
私は無意識で共鳴してて、感覚的なものではなく精神的な共感で、無意識は私と道、魂の記憶/ビジョンで繋がってる。
このせいで私は無意識を映す鏡の役割をよくする。
相手が自分自身にどう向き合っているかで私の鏡も姿が変わる。
自分に刃を向ければ私もあなたに刃を向けるし、自分を好きなら私もあなたを好き。
自分を嫌いなら私もあなたを嫌い。
自分を信頼するなら私もあなたを信頼する。
みたいな感じ。
だから、私が抱いたネガティブな感情というより、相手が自分の無意識に持つネガティブな感情をそのまま投影してるのではないだろうか。
観察結果を分析し私が鏡として相手に伝えるから、振る舞いを通して(私自身が)自己主張するわけではない。
上記の質問に「はい」と答えた場合の追加質問です。あなたはどのようにして、相手に対するネガティブな態度を表現しますか?また、それを長時間続けることはできますか?
誰かに一度ネガティブな感情を抱いても、それを許すことはできますか?
なし。
感想
ソシオFiについての評価が私自身難しいけれど、大事にしているし、優位の人の助けに有難いと感じているのは答えていてわかった。
思索を重ねて試行錯誤し、私は自身の良心とはなんだろうと考え続け、倫理の背景を論で繋いでいるのかなと思うし、Fi優位の人に教えてもらいたい。
「生き物はみんな友達」正直これで良いんじゃないかと思うけど世の中はどうもそうではいかないらしくモラルってなんだろう、という疑問。
生きるために命をもらうわけだから、仲良く生きるって難しいね。だから欲張らず生きていくのに必要なだけで良いとは思う。
私は人間社会にやってきた宇宙猫みたいだから、倫理については自身に問い続ける課題だろうな🪐
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