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ソシオニクスNe 質問


1:
人生には意味があると思いますか?
人生に意味があるという場合、その意味は何だと思いますか?

人生に意味はないと思う。
なぜなら人生に意味を見出そうとしても、人生に意味はないといずれ気が付くことになるから。



生きていればいずれ死ぬ。
それを受け入れられないから、人は自分の生に意味を見出したくなるのではないだろうか。
人間以外の動物は、人生に意味を見出そうと生きているだろうか。猫は毎日のようにゴロゴロ昼寝をしてお腹が空いたら鳴く。
食べて寝る食べて寝る食べて寝る‥
もし猫が意味を見出そうとするなら、ゴロゴロ昼寝をしてる場合じゃないと焦って「何かしなきゃいけない」「世の中に私が役に立つことはないか」なんて人生に意味を見出そうとするでしょうし、「役に立てない」「私には生きる価値もない」と絶望していつまでも嘆くことになるだろうし、もう昼寝どころじゃなくなるよね。

猫は生に意味を見出さずとも、死ぬその時まで今を懸命に生きているからこそ「昼寝」を楽しめるんだと思う。こんな潔い覚悟と生に対して真剣な姿があるんだろうか。私は猫を見習おう。
生を実感し今を大切に生きるなら、人生に意味などなく、意味も探すこともなく私はただそれだけで生まれてきて良かったと思うだろう。

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない、ということだけど、存在する自分について意識の方へ掘り下げていないように私は思う。
真実を求め知識を積み上げたところで、夢を叶えようとしたところで、何の意味もないと理解した。しかしもっと大事な本筋は、意味がないと分かったその先にあると私は思ってしまう。
神秘への扉、未知は時間の先にあるのだから。

自分の存在をも理解し難い人は、人生においての意味を探し続けるのだろうか。
どうか道に迷わないことを祈るばかり。



人生の意味は、全ての人にとって同じだと思いますか?

人生の意味は、全ての人にとって同じではない。意味を見出そうとする人の人生は、自分の存在意義を探す旅だから多種多様。
意味を探すのは、自分の不足を内面ではなく外に探しにいく旅であり、社会を発展させ人の心を慰めることに繋がることもある。

例えば、病気で下肢の切断を余儀なくされた子どもが絶望し前向きに生きていけない時、義足を装着することで再び走れるようになるわけで、義足を提供する技術者、関わった医師、子どもの両親‥夢を与えることで子を絶望から救える。
だから夢というのは絶望を和らげ「前を向いて生きる」意味を与える。

生きる意味を見出そうとする人と見出す必要がない人は元々可能性のあり方自体が違う。
意味を見出さない人は、自分の生に対してそう簡単に絶望したりはしないだろうと思う。
それは生と死に覚悟があるからだ。


2:
未知の人に出会った時、すぐに「おそらく、この人はこういう人だろう」といった情報を掴むことはできますか?
上記のような情報を、あなたはどうやって掴んでいますか?
「この人はこういう人だ」と理解するのに、どれくらい時間がかかりますか?


私は人間の推測を「どう解釈するのか」を中心にパターン化しており、未知の人に出会った時は、まるで新種の蝶を見つけた時のようにわくわくするし、少し話を聞いただけで、或いは本を2、3ページ程度読めばどういう考え方をする人かを大まかなパターンを掴み、今までどのように意思決定してきたのか(過去)、この先この人がどう意思決定していくのか(未来)動きを現在の情報から頭の中でオートシュミレーションし因果を結ぶ。
その人の解釈はその人の言動と意図を結びつけ、普遍の意思決定パターンを表している。
(↑類型タイプ)

この観察は、ほぼ無意識のうちにアンテナを張り巡らせており、私は相手の無意識領域に焦点を合わせながら、表情、目、口、手、足の動き、姿勢、言動との整合性を取り続ける。
少しでも違えばその情報に集中し、構造の中に理由を探しに行く。
私の内面にある複数の目が、問題を解くように、このパターンはどう?あ、ここで道が変わるな、と動機を繋げていく。
その過程で矛盾が見つかれば、最初に見つけた解をすぐに捨てて分解してからもう一度解き直す。自分でも正直、意識的には何をやってるのかは追いつかない。

情報は、直観的に「こういう質問にはこう答えるからこう動いていく」という私なりの推測パターンが何通りもあり、私の質問に対して「どう答えるか」反応から道を辿り相手の座標の詳細を確認している。
宇宙にある星の場所を特定するのに似ているから私はその人の動機となるパターンを「座標」と呼んでいて、この座標が繋がれば私は次元を超えてその人の場所へワープし、その人ように考えながら、その人の先にある未来を推測する。

物凄くチェックをしているような印象を受けるかもだけど、私の目はぼんやり相手の身体を貫通して遠い宇宙に焦点があるので、「この人何も話聞いてないな」と思われることもよくあるけれど、コンピュータのように情報収集しパターンを探してる。こういうところはAIみたい。

こういった過程を経て、最初に感じた直観のおおよその辻褄が合ってくるので、私は非常に満足し、今までと違うパターンを見つけると新しい問題だ。「もっと知りたい!!」という意欲になる。私は人間に対する好奇心が強い。

予測は基本話さないし、大概気持ち悪がられる。
必要な時に必要なことを、何を話し何を話さないか、この選択も相手の道行を常に左右してしまうから余計なことは言えない。
私は自然の摂理に従い、運命はそのまま受け入れる。そしてもし進む道に危険が迫っているなら、必ず引き返せと伝える。

私の頭の中は常に謎解きであり、シャーロックの推測の仕方にとても似てる。洞察の導き方も。


映画やアニメ作品は監督の解釈そのものなので、何を伝えたいのか、何を意図して作られたのか、そういう情報を元に現実に適応させて、あれこれ考察を楽しんだりする。

しかし最終的に「この人はこういう人だ」というのは、私には一生分からない。
人間はずっと謎だし、何をするか分からないのが人間だと思ってる。理性と衝動の境、善と悪の境にある真実はどこにあるのか、本性が現れるのはどのポイントでどこで道が変わるのか。
時間の中にある真実を探究し続けるのが私には楽しくて仕方がない。

全部知ってしまったら面白くないから。


3:
アインシュタインの名言に「この世には2つ、無限なものが存在します。それは宇宙と人間の愚かさです。もっとも前者が本当に無限なのかどうか、私にはわかりません」というものがありますが、愚かさの本質とは何だと思いますか?


愚かさの本質は願望と期待ではないかな。
自然の摂理、宇宙の法則に反しているから。
アインシュタインの言葉は、彼の人生と歴史的背景から「権力」や「地位」を求める人間の欲深さに対する愚かさを説いたもののような気もする。
期待と願望の根底にあるのは執着心。
それは真の「可能性」ではなく慰めや他責だと私は思う。

アインシュタインは、自分の理論からドイツがウラニウム原子の分裂に成功したという知らせを受け、ナチスの原子爆弾製造を止めようとした。
核の恐ろしさを伝え、アメリカに製造を勧めている。しかしこれが、かつて訪問した日本への原爆投下に結びつけたキッカケにもなり、罪悪感が彼の人生を苦しめることとなった。
自分の好奇心、探究心の結果が思いもよらぬ形で残酷な現実に結びつき、ナチに翻弄された彼の人生を通してみても彼が「人間は愚かだ」と思うのも無理はないと思う。

期待と願望は人間を欲望に走らせる。
まず『知足者富』を知らないし、特別意識故の「あって当たり前」「してもらって当たり前」の他者依存の人間がまわりにとても多いように思う。他人任せ人間には自分の意思がない。
依存に満ちた傲慢さは、ナルシシズム的支配者や奴隷的弱者の発想になる。
支配するもの、されるものはどちらもテイカーであり、その自覚もなく我欲と損得勘定の狭い世界に生きている。

欲望が悪いのではなく、制御できずコントロールを失う欲望だらけの状態が人を「愚か」にする。
生に無限を感じるのも、時間に無限を感じるのも、執着から離れらない、いずれ死ぬという事実を諦めきれない人間の愚かさではないだろうか。




なぜ愚かさは無限なのだと思いますか?


私は人間の愚かさは無限だとは思わない。
全てを諦めた(覚悟)先にこそ希望があるのだから。その点で私はアインシュタインよりもオッペンハイマーの考え方に似ている。
愚かさの先に希望を見出せるのは科学では解き明かせない感情、人の心だと思うから。
宇宙の神秘、真実も死を超えた場所にある。
私の言う「死を超えた場所」は天国(あの世)などの空想を意味するのではなく、高次元の宇宙の記憶、魂の繋がりそのもの。
ここに信頼を置く私は、人間の本質が「愚かだ」とは思わないし、アインシュタインは宇宙に希望を見出したいからこそ、「もっとも前者が無限なのかどうか、私にはわかりません」と希望を未来に託したんだと思う。


愚かな人と、そうではない人の違いは何だと思いますか?


愚かな自分を自覚できない人はいつまでも愚かな自分に嘆いている。自分の愚かさに気が付きたくないし認められないから嘆くのだ。足を失っている現実を受け入れられず「私には足がない」と泣いているのと同じでいつまでも前を向くことができない。できない自分を慰めるか、他責と自己正当化として言動に現れる。
しかし愚かな自分を自覚する勇気のある人は、その時点でもう愚かではない。

気付きのキッカケさえあれば、人間は皆可能性に満ちていると私は思う。

4:
真実、半分だけ真実、虚偽:この3つを区別する基準は何だと思いますか?


私は時間軸にある道行きを論で繋ぐことによって、真実、半分だけ真実、虚偽を区別する。
その道に進むなら、その人の言葉や解釈はそのようになり先行きが決まるからだ。
次元の違いは、抵抗の有無や解釈の柔軟さ物腰の柔らかさ(つまり謙虚さ)で表現され、柔軟なほど精神性は高い。

道の分岐は、本人の無意識にある普遍的価値観によって決定されるため、他者が道に介入することは難しいが、道を知るならば、変えるキッカケを用意することはできるため、時間を先回りし立て札🪧を設置したり、打開に必要なアイテムを用意しておく。


しかし、それを生かすも殺すも本人次第で、本来なら役に立つアイテムであっても、虚偽の目には💩にしか見えず、立て札も信用できないから、キッカケを容易に見逃しいずれ穴に転落する運命にある。
それは仕方がないことだと思う。

虚偽とは、その人の目にも偽り(表面)しか見せないからで、本人は意識的にそれを真だと思い込んでいるが、無意識的には偽を真に見せかけ防衛、認知バイアス。
道はすごろくのコースのようなもの。
サイコロは本人が振り、誰かが代わりに振ることはできない。
主体性のない人は、自分のコースもサイコロの目も知らないまま前に進むようなものなので、不安で怖気付き、何かや誰かに縋ろうとする姿勢が依存心として現れる。安心したいから誰かに先導されたい、ついていきたい。虚偽は自分をも偽るため、人を信じること自体難しい。


・真実は宇宙の法則、自然の摂理に従えているかどうか。時代を超えて必要とされるもの。
生も死もない、善悪を超えた視点で観測されるもの。物事を疑い、人を疑わない。
気付きと自身の成長を糧にする鍛錬の道。
自己肯定感、自己実現が前提
聖道門への道


・半分だけの真実とは、真実に向かう道半ばで、まだ先に見出せる答えがある状態。
片足は真実に向かうが、片足は心を慰めており、自己矛盾を抱えたまま、突き抜けていない。
共存の視点から見える中間的な解釈は、万人から受け入れられやすい。
承認欲求段階
浄土門への道


・虚偽は、真実とは真逆のもので大衆の「願望や期待」が生み出す心理投影の世界。あべこべ。
自分と比べた上下判断、他人を疑う、白黒、損得勘定、自己正当化などで観測される。
妬み嫉み恨みなど負の感情が渦巻く。
認知バイアスが生む自己矛盾に苦しむ。
物質と欲望への囚われ、依存執着を生み出すもの。真実を嫌い煩悩にまみれるため多くの慰めを必要とする。死に救済を求める者。
承認欲求、安全、自己卑下


純粋な真実や、純粋な虚偽は存在すると思いますか?

それぞれの道を極めれば「純粋な」は存在する。


いくつかの具体的な事実やデータが組み合わされた結果として虚偽が生まれるメカニズムを教えてください。


虚偽が生まれる原因として、客観視点のなさと全体像を頭の中に描けないことが挙げられる。
「自分の見方」一方向にこだわると取捨選択の偏りが生まれる。自分の正しさを主張するためのデータ集めは、正しくない可能性がある反対側の事実を容易に見過ごす。

つまり自身の経験値頼みでは「自分はどう思うか」という主観で物事を捉え、客観的な評価ができないから他者(専門家や有名どころ)の集めたデータを持ち出して自分の根拠にしてしまう。
その実験結果が真実なのかどうかまで考慮できない危険性がある。

最近見た例としてはこの記事↓


精神構造を理解し「賢明さは装うものではない」と分かれば、『研究者がさまざまな文化的背景を持つ人について分析を行ったところ、言語・数学・知能テストで高いパフォーマンスを示す人々は、特に他人に対して懐疑的な見方を行っているわけではありません』という事実に対して、
記事中にあるような『人々がシニシズムについてどのように認識しているかを調べる実験』をせずとも『シニシズム』について説明がすぐにつく。


この実験が無駄だなと私が思うのは、解釈というのはそもそも人によって次元が違うのだから、普通に話せば、それが次元の違うあべこべの相手には「皮肉に聞こえる」ということを理解できない。

このように「世界は変わらない」と決めつける現代の「悟った風」ネガティブなシニシズムと、人々の生活状況の改善や創造の自由に献身だった古代からあるポジティブなシニシズムとの区別をこの記事は推しはかれていないことが分かる。

具体的な事実やデータが組み合わされた結果、それらしい真実として世の中に出回り、それを信じ込む人が大勢いる。


5:
アイデアが優れているかどうかにおいて、必ずしも正確性は重要ではありません:この考えについて、あなたはどう思いますか?


現実的に機能するには正確性は重要。
空想には意味がないと思ってしまう。
現実的にあり得ないIfストーリーにはあまり興味ないし、誰かがそういう話を始めたら面白いとは思うものの「考え方が面白いね」くらいで聞いてる感じがする。

ただ、こちらに話を聞く余裕がない時は、それがどう現実的にあり得ないかを丁寧に説明しだす一気に面倒くさい人間になる。
これは私自身凄く気をつけなきゃいけなくて、名探偵コナン観ながら、辻褄が合わないと「なんでだ?」「それは違う‥」「時間的にあり得ないな」みたいな粗探しと「私ならこうするけど」が始まって一緒に観る友達に「Nyankyとコナン観たくない🥲」と言われた‥や、本当にそうw
ごめんなさい

だから私は転生ものもあまり受け付けないし、目的から逸れる道草だらけのストーリー構成も無言‥😑になってくる。

「すずめの戸締り」に関しては、閉じ師がなぜ扉を閉めて回ってるのか理解が難しかった。「扉を閉めるんじゃなくて開けなきゃ問題解決しない。閉めることで次の世代に理不尽の因縁を繋いでやしないか。「途中でなに遊んでる?目的はどうした?!」ガンマ的突っ込みを繰り広げてしまう。

私としては、たとえオープンワールドであっても余計な道草をせずに、直ぐに作戦を立てて必要なものを揃え確実なルートとボス戦に挑むことを考えだすので、「もっと楽しめ、勿体無い」と思われても仕方がないと思う。
でも私はそれを損だとも思っていないし、強敵こそ自分が立ち向かう相手でそのための試練や修行じみた特訓の方が、探索を楽しむよりも性に合う。成長がしたいから道草や空想は苦手だなぁ‥
時間は無限じゃないから。

6:
想像力という言葉の意味を、あなたなりに解説してください。
全ての人が想像力を持っていると思いますか?
あなたは自分に想像力があると思いますか?また、それはどのような形で発揮されることが多いですか?


想像力は神秘であり、心を自由にする翼だと私は思ってる。
どんな困難な時も、想像力さえあれば暗闇に差す一筋の光、希望を見出せるから。
想像力の翼があれば世間体は必要ないし、集団に縛られることもない。
私の身体をどんなに押さえつけようとしても、たとえ足がなくても目が見えなくても、目を閉じるだけで、いつも前向きに考えられるだろう。
洞察にも想像力が必要で、頭の中でイメージを動かし、現実では不可能な実験、空間と時間の移動も可能にする。私は頭の中で連想や思考実験をよくするが、大抵それは現実に可能なのか、あり得るのかどうかのテストばかりしてる。
しかし、生活が便利になるようなアイデアを生み出すことは私にはできないし、発明には正直あまり興味がない。

私の可能性は、社会が今何を求めているか、何が必要なのか、承認欲求からトレンドを見つけ出す方が向いているし、自由への道すじを示す方が好きだ。今後の方針や作戦を立てたりすることが好きなので、そういう場面では意図せずリーダーになってしまう。
問題解決の観点から、隠された事実を炙り出し、未来に備えた対応策を考えたり、社会に必要なものを創造したり、仕組み作りに貢献する方が楽しい。古い理論を今風に作り変えたり、分かりやすくアレンジするのも好きだし、他人の解釈から新しい視点を得て、現実に適応させるのも好き。

全ての人に想像力は備わっていると思う。
だから私は気付きの大切さやメタ認知を色んな人に促しているし、想像力によって精神はより自由になり何も縛られることはないだろうと思う。


7:
誰かが(またはあなた自身が)他の人と異なっていて、その違いが目立っている時に、あなたはどう感じますか?

どう感じるか?
もう慣れてしまったし今はあまり何も感じない。
小さい頃は考え方が真逆でまわりとの違いに自分がおかしいのかと驚き早々に理解した。
「他の人と同じで安心」なんて選択肢、私には最初からないし選べもしなかった。
だから私の人間への興味はむしろ違いを知り理解したいんだと思う。

個性が目立っても何も恥じることはない。
目をつけられると出る杭を打たれて面倒だけど、集団の枠にいる必要もない。

孤独感は、心の拠り所のないことから生まれる。繋がりを求めて誰かや何かに依存したくなる人は多いけれど、本当は心の拠り所は自分の根っこであるアイデンティティとの信頼なんだよね。
魂との繋がりがあれば皆最初から孤独だと気がつくし、暗い砂漠で迷うこともないでしょ。
アイデンティティは、暗闇を照らす光になり、心を自由にする。自分を知るってそれくらい大事なものだと私は思う。

星の王子様は、地球にやってきましたが、砂漠には誰もいません。孤独に感じた王子様は砂漠の花に「人間はどこにいるのか」と尋ねました。

さあ、どこで会えるかわかりませんね。
風に吹かれて歩きまわるのです。
根がないんだから大変不自由していますよ。

(サン・テグジュペリ『星の王子さま』)

人間は根っこがないと、たとえ居場所があったとしても、心の居場所がないなら孤独を感じ続けてしまう生き物。本当は外に拠り所を探しに行くんじゃないんだよね‥内面に繋がりを見出せば良い。

私は孤独を受け入れ、根っこ(アイデンティティ)を知った。
私も孤独、あなたも孤独、私達人間は心で繋がっている。私は精神の繋がりがあるから孤独には感じないし、誰かが他の人と違うことも、私が他の人と違うことも全部当たり前だと思っている。
みんな違ってみんな良い。

仏陀もこう言ってるでしょ。

独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来きたる

仏陀


「この人は他の人とは違う」あるいは「この人は他の人と同じだ」ということを、あなたはどのような基準で区別していますか?

そもそも次元による解釈と道が違う。
同じ道を辿るかどうかはパターンがある。
ソシオニクスの次元の質問も解釈の違いをあわらしており、解答がその人の次元を示すから一目瞭然じゃないかな。その人が何を大切にしているかは解釈を紐解けば見えてくるよね。
次元が近いと話の内容や問題意識、波長が合うから分かる。

基準は前の項目で書いたので省略。

「他の人とは違う」という在り方が容認されるのは、どのような状況や条件が満たされた時だと思いますか?


容認される条件なんて何もないと思うけど‥
「他の人とは違う」に状況や条件があるとしたら、私には人権ないかも🤣ww
皆当たり前に違うわけだし、道が同じだからといって同じ人生ではなく、もちろん同じ人ではない。皆それぞれ違うから。




答えた感想

Neの質問に対してスラスラ解答できたけど‥
Neの解答しながらNiの説明をしているという感想しかない💦
可能性の広がり、Ne時間を考慮しない。
私は先々の見通しばかりで取捨選択しているから4次元Ne時間は持ち合わせていないことがわかる。
あぁなるほど‥だからLIEは証明Neだからリスクを先取りして後でその分を取り返すのか。
LIEと話は合うけどTeが無謀に見える時がある。
私は、可能性を無視して先のリスクを見るからLIEより慎重になる。
私はNeを無視してるんだね。

第7機能 無視Ne

↑無視Ne 確認したら凄くわかる。
Ne質問の解答をNiで埋める事でNeに敵対してる節がある。ライバル視してるんだぁ‥面白いな。

Neについて現在の状況評価やたとえ話はできる。具体的な例を出し評価を検証するが、それを重視しないので3次元Neが妥当。

3次元:現在の状況を評価し、その評価結果にあわせて調整する(状況)

4次元:連続的に変化していること、動き続けていることを確認する(時間)

次元の評価

長々と書いた、Ne楽しかった☘️

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