見出し画像

ソシオニクスSe 質問


私はソシオSeにかなり価値を感じており、共に戦う相手として意識しやすい。
ILIの私は暗示Se。

暗示機能の情報は、なんでもありがたがって欲しがるとあった。
さらに暗示は無意識の機能だとソシオニクスでは説明されていて、私はNi主導だけれど、無意識の深いところではSe重視なのだろう。

とにかくSeとNi、いかにバランスを保てるかが私の課題であるようだ。

私のビジョンは、陰(Se)陽(Ni)で精神のバランスは成り立っている。

陰と陽、表と裏は2つでひとつ、精神は自立してる。まさに私の思想そのもの。

脆弱な機能とは対照的に、この暗示される機能のアスペクトにかかわる情報が伝えられても、拒絶したり不快や疲労を感じたりすることがなく、逆にこの情報に対して感謝と信頼の気持ちが沸き起こり、とても価値ある重要なものとみなします。

ソシオニクス暗示機能

ソシオSe、あなた方に日々感謝🥰



あなたは相手に圧をかけることができますか? 

物事の流れが変わった時、必要だと判断したら見える形ではっきりと自分の意志と目的を伝える。
怒りが動機というより普段より高揚し楽しくやる気に満ちるのでまわりは驚く。
「戦闘開始だ⚔️✨」となる。

私のプレッシャーのかけ方は精神に働くのでESIに似ているところがあるが、威嚇や挑発には乗らないし私が感情で動くことはほとんどない。
精神性を求めるあたりはガンマクアドラらしいと思う。

ソシオニクスESI



普段はゆるゆるしていて自己主張はあまりない。
瞑想中みたいにウトウトしてるか、考え事をしているか、反応が遅くラグい。
突然驚かされても3秒くらいはタイムラグがあるので、それがまた冷静な人に見えたりする。

幼少〜小学生の頃は、力の高ぶりと身体の使い方を上手く制御できず、身軽だから壁があればどこにでも登る活発さと俊敏さで、スタートダッシュは誰にも負けないくらい足が速かった。
男の子や年長者に反抗し、反応を確かめてはパターンを集めており今よりも我が強かったと思う。

私は日々無意識にアクセスしているけれど、まわりは私が何を感じ何をしているかよく分からないと思う。

どんな方法でですか? もしできるなら、こういうことが生じるのはどのようにしてですか?

私の意思決定は直観から動機づけられるので、不明点が多い。ひとつの可能性、仮説でしかないので、確信するまで徹底的に情報収集し抽象にあるパターンを照らして因果関係を突き止めることに集中する。

私が状況を変える時は、最悪の予測とこのままの方向ではやがて選択肢がなくなるという時で、もう前に進むしかないからだ。
構造の欠陥に気が付き、もうすぐ船が沈没しますと知らせるようなものに似ていて、急いで進路を変更しなくてはいけない。
舵取りは私に任せろ!という気分になる。

私は何かに気が付いたら急に指示的になり、積極的な勢いに変わる。潜んでいた無意識の私はイキイキし、生きている実感がわく。

私は今まで進めていた事をあっさり切り捨て、急な方向転換もする。
目に見える状況ではなく、目に見えないずっと先の未来の流れに注目しているから、説明もきちんとできないまま「とにかく、私の言う通りにすれば良い。いずれ分かる」というような曖昧な指示になることもあるし、混乱した時ほど楽しそうにしている。
私を信じて任せてほしい。
引き受けた以上、責任は全て私にある。

その時に「きちんと説明してくれないと納得できない」だとか「自分の思い通りにしようとしてるでしょ」と私の決断に猜疑心を募らせる人には、話が通じないなとなるし「私が全部やるから、君は家で寝てろ」という姿勢になりがち。
動ける人だけで良いし、ついて来れる者だけついてこい🐎という感じ。

子どもの頃からずっとそうで、私は物怖じしない修行仲間を探しており、遊びも何かを克服するためだとか修行要素を組み合わせる。

おそらくTeの要素だけど、自分の判断と行動に責任感があるかを常に観察し、生に覚悟があるのか、その人の精神のバランスを見極めようとする。
私が重要視するのは、ここぞという肝心な所で引くのか立ち向かうのかどうか。精神的な強靭さ。
だから何かに尻込みしてる人に「なぜそこでひくの?」「なぜ解決しようとしない?」と悪気もなく聞いてしまう。
これが人よっては圧力だと取られる🥴

キングダムの嬴政のような、信の強みを分析し冷静に動きを見極めようとする姿勢と「手が必要かどうか」協力の確認「(目標のためには)まだまだこれからだ」(圧)が私には結構ある。
嬴政の協力を拒否した信に「お!引かないな」と嬴政は喜んだはずだ。

修行じみたところが、双対SEEの高い壁に立ち向かう意志の強さとマッチしていると思う。
共に高い壁を超え強くなろうとするところ。

キングダム


実際、私が感覚も鈍い怖いもの知らずで、くだらないと判断した因習(常識)に抗い、率先して”私は自由である”とまわりの大人に主張することしか幼い頃は術がなかったし、怪我をしてもおかしくない事に挑戦することは多かった。
自分の身体を試していたんだと思う。

ニーチェのエピソードで有名なものがある。
これは、ニーチェの生真面目さではなくて、くだらない校則への反抗的態度だと私は思う。
私も似たことをしていて、校則に縛られる人間の融通の効かなさを身体を張って立証していた。ニーチェはきっと分かっていた。
同じ事をしているのは面白いし驚いた。、

自分の力を試されるなら期待に応えたいと思うし、自分の強みと弱みを知るチャンスなわけで、そこにSe愛を感じている。
「失敗を恐れずやってみろ」と誰かに言われると、私はやる気に繋がるから、私もそれを他人に言うことはある。

問題視していることや、やりたいと思うことを、言うだけ、思っただけの人に対して、本当にそう思うならやってみよう!と私は現実に結びつけたアイデアを出したがるし、予測してそれが不可能なら無理だとはっきり伝える。

目標までの具体的なプランや作戦を聞かせて欲しいけれど、私のこのような率直な物言いと未来予測で、いかにそれが困難で現実不可能かを丁寧に根拠まで示してしまい、楽観的な人にとってはこれが鋭いナイフになり、可能性を削ぐことになりかねない。
喜んでくれるのはSe、Niの人くらいだなぁ‥

個人の背景とパターンを理解するようになってから、「人によって言うこと言わないこと」を学び、直観情報の扱いにはこれでも慎重になった。
でも気をつけてはいるものの、上から指示をしているように聞こえ「駒使いにされてる」と被害的に取られることもある。

私は自分が時間の流れに乗って、必要な時に必要な場所へ自分を駒のように置く事に慣れていて、「自分が成長できるなら」仕事を引き受けてしまう何でも屋でもあるため、同じ感覚で他人にもそれを勧めてしまうことがある。
自分を駒のように配置してるんだから、他人には気をつけないといけない。

私が修行を好むのは、いつも自分の意思で自分の責任において判断できるのか、私の身体がどこまで外の圧力に耐えられるのかを見極めたい。
そうすれば直観がより研ぎ澄まされ、ビジョンが確信になる。

私が「さぁどうするかな‥」と考えようとした時に、Seの人は素早い状況判断で、率先して「ついてこい」「こうやるんだ」と全く別視点から素早く解決してくれる事が多々ある。
これには正直ドキっとする。

暴走列車に誰かが乗ってたとして「こっちに飛び乗れ!大丈夫だ!!」と別の列車から声をかけるなら、意志の強さに基づいた確信と責任がある人でないといけない。
信頼と責任が欠けると「大丈夫だ」「私を信じろ」の説得力に欠けるからだ。
責任を持てるのか、私にとってこれはとても大切な事で、約束は軽いものでも安易にしないようにしてる。
信頼は責任を果たす事だと思うし、全力を尽くすこと。人との信頼はそうして築いていくものだと思うから。

私は時間の因果の道に責任があり、誰にもついていく気がないし私が進めることに指図される気もない。私には直観が示すビジョンだけが真。

でもそんな私に「ついてこい」と自分から責任を背負う人なんて‥この人はどんな抜け道を知ってるんだ?これをどう打開するんだ?とSe視点を非常に面白く思う。

自己鍛錬や修行に必要なこと、別視点の打開策(Seからの情報)には全く抵抗がなくどんどん教えて欲しいと思う。

たとえ理不尽な連帯責任にも「強くなれる機会を与えてもらえた!」と喜んで罰を受けるし、もっと強くなろうとする私の変人さに、ソシオSe優位の先生方は鍛え甲斐があると好んでくれる。

本質に繋がるとどめを刺す事、タイミングを見極めること。NIとSe、とても似てると思う。


私のSeに対する姿勢は『ムーラン』に似ている。私は常に自分を奮い立たせてくれる闘志を求める。ムーランが配属された隊の隊長リー・シャンはLSIかなと思う。

βクアドラのSeは私の良い先生。


私が通っていた体操クラブのコーチはおそらくSLEで、選抜チームになると軍隊のように厳しく、私の精神の鍛錬を感覚に繋げてくれる非常に良い教師だったと思う。

強い意思と自分に責任がない奴はクソだと、私は自分の肉体的な弱さ(省エネ運転)を直観的に分かっていて、自分の覚悟を痛みを通して鍛えようとしていたんだろう。
Seは立ち上がる勇気をくれる大事な存在。
共に高みを目指せる戦友というか‥
そういう信頼関係、私は素敵だと思う。

私はSeのおかげでまもとな人間になる機会を与えられたと有り難く感じる。
どうか死と目をしっかりと合わせて対峙させる勇気と覚悟を私にください。
ウィトゲンシュタインも、条件から兵役は免れていたが、自ら戦場に志願し赴いている。
これはウィトゲンシュタインの謎になっているけれど、私は彼の気持ちがわかる。

「今、僕に、まともな人間になるための機会が与えられているのかもしれない。というのと、僕は、死と目と目を合わせて対峙するのだから。どうか霊が僕を照らしてくれますように!」

ウィトゲンシュタイン


攻撃戦略は何ですか? あなたはそれを応用できていますか? 

私の戦略は、主にソシオニクスNi-Teに基づいていて、これ自体私の思想で私の頭の中でもある。

私は積極的な先制攻撃がベースではなくて、対抗手段として突破口を見つけたり、戦略として色んな可能性の道を持つ方だと思う。
何かが動く予兆をいち早く知り、時期の割り出し、どういう経路でどういう広がり方をして、その目的は何か、そのためにどう対応しどう動けば良いか頭の中は勝手に計算していく。
最悪の状況から好転させるのが好き。

私の頭の中はこれが日常。

心理戦


全体像の把握と戦略はキングダムの李牧に似てるように思う。だからこれはソシオSeというより私のNi-Teの話になる。
見えない問題を可視化しまわりの危機意識に繋げることが目的(体裁と裏側にある矛盾、事実の暴露がメイン)なので、排除や個人的な恨みごと、罰を与える等の目的では動かない。

この点で私はβと意見や目的の不一致から対立することもある。SLEは地図上(見える具体的な感覚世界)の行動の論理で集団を動かすことに長ける。

ソシオニクスSLE


私は地図上ではなく、地下(見えない抽象的な世界)を走り、時間軸に潜伏し最適なタイミングを伺う、というような動き方。
敵味方関係なく調和をはかりながら、内部から問題を解き可視化していく。

このように、ソシオNiとソシオSe、無意識領域で動くか力の影響力で動くか、見えないか見えるか、影響の与え方が真逆の存在だと思う。


目的までの最短ルートの計算で、私が実行するのは確実な道とゴールを確信する時だけになる。
もし私より時間軸を先回りできるとすれば、私と向き合い高次で戦える人(道を知る人)しかいないだろうし、私は自分と似た対戦相手が欲しいなと思うこともある。

これはクアドラコンプレックスとして書かれているけれど、私はこれが平常運転で頭の中で目に見えない動向を常に追ってる。

果たして真相究明が圧力なのかどうか‥??

具体的な動き方については、デスノートのLやPSYCHO-PASSの槙島聖護と似ていて、私は見えない動向を抽象世界で追い続け、仮説を立てたり推理が大好きなので興味を持ったら必ず真実を突き止めようとする。

槙島聖護は、思想も飄々とした雰囲気も似ているからアニメを見た時は驚いた。
私はあんな残忍なことをしないけど、意志の欠落した思考停止の人間で溢れかえる無関心な社会、その根本的原因を暴き決断と意志の重さを問いかける姿勢は、彼と同じだ。

人は恐怖と対面した時、自らの魂を試される。何を求め、何を為すべくして生まれてきたか。その本性が明らかになる。

槙島聖護


精神がどこまで耐えられるのか私に見せて欲しい。無意識に向き合う覚悟はあるのかどうか、精神の強靭さを私は知りたい。
こっち側(深淵)に到達するのかどうか。

直観的に間違いに気がつけばすぐに過去に戻り、未来予測と照合し適宜軌道修正をかける。
直観が真実までの羅針盤になりナビゲートしてくれる。

頭の中でカーナビみたいに地図を描き、それぞれの目的経路と最適ルート、交通渋滞の予測、事故や障壁のリスク管理をしてるから、方針から大きく逸れたり道行き変更の兆しには非常に敏感で、交通管制塔みたいになっている。
視点を移動し、ズームアップして詳細を分析し原因を特定、今後の展開や影響を予測していく。

時間認識はハンニバルのウィルやXファイルのモルダーに似ており、私の追跡法は時間軸に潜り視点を変えて事実(証拠)を拾い道を辿っていく。
情報の集め方は言語化が凄く難しい。


私は、人間と人間関係を軽視する自己中心的な操作性のある人間や、犯罪そのものを研究したり、サイコパスを追跡対象にすることが多い。
彼らは自分しか見えておらず、意識上の計算だけで無意識領域を知らない。

未知を恐れ表面的、短期的な認識の人からは、私の行動や問題解決の姿勢を危険視したり異議を唱える人もいる。
いくら暗闇に潜んでも、どうしても枠からはみ出してしまい、こういった私の全てが世の中とは真逆の価値観であるために、自分達への攻撃だとか圧力だとか、破壊的だと見なされやすく、自分の常識枠組の人と私の価値観は相容れない。
私は枠組みを遠慮なくぶっ壊す方だから。

たとえ法律違反になろうが、常識に逆らおうが、自分が信じたい夢や願望よりも、自分にできる最善を尽くせるか、ビジョンに誠実であれるかどうか、私にはそれが1番大事。
自分の道は自分で切り開く。

もし望みを託せるなら、私に何かあった時ビジョンの行く末を受け継いで欲しい。
リヴァイみたいに「お前は潔く死ね、後は任せろ」とビジョンを信じて言ってくれるだろうか。


強者には強者を、化け物には化け物を、暗闇には暗闇に対抗する力が必要だから、私は自分を律し戦い続けるだろう。



攻撃が正当化されるのはいつですか? 

動くには必ず理由がある。
始めた時から、目的意識と根拠がある。
私は動機がないと始めることもないし、責任は私にある。


他人のテリトリーを占領することは可能だと思いますか? 

テリトリーを私は普段意識してるわけでもない。
たとえ自分の土地を買ったとしても地球に土地を使わせて頂いてる身だということを忘れたくない。テリトリーなんて枠を取っ払って考えた時にもっと大事なものが見えてくるように思う。

見えないテリトリーについて話すと、私は無意識の記憶を共有し繋がるからもう既にテリトリー(頭の中)に私は存在すると思う。


無意識に開放的な人は、偏見を持たない人が多く、直観情報を大いに活用してもらえる。
私は喜んで予測を提供するだろう。


そしていつなら可能だと思いますか?

時間の流れと直観に任せている。

ふだん、どのように自分や自分の利益を守っていますか?

私は仕事や取り組んでいることで、自分の身を守ることはあまり考えない。
自分の立場、居心地の良い環境などもあまりこだわりはない。自分の主張が伝わらない事は心得ているから、マイクを奪い合う必要もない。
誰かに承認してもらわずとも私が私であれば良い。私が自分を承認している。
私は平穏無事にいるより進んで修行をしたがる。修行は力や影響力を鍛えるものよりも、精神修行が多い。
自分に課すプレッシャー、自分が堪える痛み、責任の重さ、諦めない心、他者からの罵倒、侮辱、偏見、嘲笑‥負の感情に対する屈強な精神力を身に付けたい。
これは私が私であること、私は私自身を諦めないためで、精神の自由と強靭さの獲得を目指す。
それが私の財産になるから。


私は無意識に想像力の翼を持ってるおり、承認、物欲や所有に関して執着は殆どない。
そういうのは魂の成長には必要がないことだから。


私は利益を守るよりも不利な状況をどう切り抜けるか、どう改善するかを考えた方が楽しいから、理不尽な程、突破しがいがあるしそれが自分の成長のチャンスになる。
逆転に面白さを感じる自分の性分だから、敵を作ることも多いけど、楽しくやっていきたいと思う。

”守る”を考えるとすれば、私は人類の歴史に続く時間の管理者として記憶を受け継いでいる以上、道の責任だけは果たしたい。

それが私(道)の利益を守るということだろうか。

対立している状況や、自分の強さを示さなければいけない状況で、あなたがどのようにふるまうか語ってください。

私は謙虚さを大事にしている。
対立した時は、私が相手を理解できないからだろうし、相手が無意識を拒絶していることが多い。無意識に対立するなら私は鏡になる。
鏡の前で怖い顔をすれば、同じ怖い顔が見えるように。
だからもし相手が望むなら私は喜んで対立し、ゲームを楽しもうとする。

私は混沌とした状況が好きで、出番が回ってきたとイキイキするし対立は、私の生に活力を与えてくれる。

私の破壊欲が社会枠に合わせられなくなりそうで怖いから、普段は理性で制御している。

車の運転が良い例で、私は自制が難しい。
これはLSIだけど私にもこれがある。


私の軸は本来精神にあるから、筋肉を見せつけなくても、力で威嚇したり影響を与える必要もない。けれど、おもちゃを与えられて楽しくなり制御できないのではと思うと正直怖い。

私は根本的な原因を明らかにしようとするし、真実に手が届くまで追求の手を休めることもない。だからとても執念深いことは確かで、私の好奇心が勝れば、嘘発見器にかけた尋問のように他人を精神的に追い詰める事もある。
それも気をつけなきゃいけないと思う。

私が頑なになる時は、未来予測での道の分岐に関するものが多い。
自分にとっての最善の道を選択するには、いつまでもその場で立ち止まって泣いていたり、甘えたことを言っておれず、すぐに切り替えて進みだす。私は同情も慰めもあまりしたくないし、時間を割きたくない。
それでは甘い幻想と過去に留まり自分で決断できなくなるから。

だから自分の道は自分で決めろ、自分の目標に覚悟を持てとよく言う。

私はさっさと先に行く。


あなたは強い人だと思われていますか? あなた自身は、自分のことを強いと思っていますか?

私は意識が飛んでいることも多く、人とはいるが群れる事はないので強い人というよりも変わった人だと思われる。
けれど、Te的に強い意見がありSeの勢いも突然飛び出すので、ギャップがありすぎて驚かれる。
私が何か失敗した時「しっかりしてると思ったけど、そういう失敗もするんだね。安心した」とそれまで警戒して様子を伺ってた人も仲良くしてくれる。そういう時私は少しホッとする。
どの程度なら枠からはみ出ないか、私も集団に馴染^み、社会の価値観を理解する必要がある。

ソシオSeはアクセルを踏みすぎるから制御法を模索する。
陰と陽、私は対極した真ん中でバランスを上手く取る必要がある。私はバランスを取るためにもっと鍛錬が必要だし、いつも率直でいたい。

私を鍛え、いつも厳しく正々堂々と戦いを挑みに来てくれる人、生きることを諦めず強くてポジティブな人がとても好き。

真実と自分への忠誠と勇気。
自由には責任と、それを貫く覚悟がいる。

私は成長し高みを目指すから、いつも前を向き立ち上がる。諦めたくはない。

ソシオSe

☝️これこれ!!🫶


野心とは何か?

私に野心があるのか‥といえば、私には道を示すビジョンがあるから野心に突き動かされるような動機を必要としない。

私は野心とは真逆に立つけれど、ビジョンに従って常に前進あるのみ!で動くから、それが外からは”野心”と見えるかもしれない。

野心家と言えるのはどんな人か?

偉人で思いつくのは織田信長かな‥
野心家は日本一とか世界で1番だとか、ヒエラルキーの頂点に自分の目標を置くことが多い気がする。残念ながら、到達目標が外の”頂点”であるなら己の頂点ではなく、内外争いが続く道行きになるのは、歴史からも明らかだ。

頂点を目標にして何かを成そうと野心を抱くと目的は利己になる。頂点を超えた先に道が続くこと方向性を常に意識しなきゃいけない。
いくら最初に崇高な理想を掲げても「祖国のため」だとか「〇〇のため」それをゴールにしてはその道はいずれ支配に偏るだろう。
というのも「(自分達の)〇〇のため」にならない反対を敵と認識するしかないからで、自分達の秩序と平和のために他方の排除に明け暮れることになる。

敵か味方か、白か黒では、シスの論理と同じ。
敵も味方もない、白も黒もない、多様性を目指さなきゃいけない。
味方を愛し、敵も愛せよ。
敵も味方、内も外も同じだと気がつくこと。
自分の枠組みや常識を恐れずに破壊していけ💥
どんどん改変し自分を新しく更新するので、メタ認知はとても有効。

”何かを作る、する”のではなくて、何をしないか決断できるのが真のトップだと私は思う。
やるよりやらない決断ができるか、攻めより引き側を極められるか、傲慢より謙虚であるか。
責任を背負う覚悟があるか。
孤高で先頭を走り続けるなら、多数に群れ仲間を集めることはない。孤独を楽しみ、自ら孤独になる意志の力が必要。

本当に自信がある人は、虚勢を張って守る必要がないから多数派と真逆の動き方をする。
多数派は、謙虚さや丁寧さを馬鹿にしてくるかもしれない。しかし自信があるなら、その時々の情緒まかせの判断が、自分の身を滅ぼしかねないことはよく知っており、同じステージで争う事はない。
そういう時こそ、笑顔で対応し器の大きさを示せば良く、挑発に乗ってはいけない。
必死に数を集めなくても、自信のある人のところには自然と人が集まってくる。

今日自分は死ぬかもしれないと覚悟を持ち毎日コツコツ大切に生きること。
今この瞬間、この決断、何も悔いを残してはいけない。後悔する、落胆する、言い訳になるというのは安全策を選んできたから。
自己正当化は「(他に選択肢があったとは)私は信じない」と願望に逃避し、事実さえ改変してしまう。

常に最善を決断するには自分と戦う必要がある。
「仕方がなかった」なんて選択肢は存在しない。
それを選んだのは誰でもない自分自身なのだから。

人間は新しいものを作り出す事は得意だが、今あるものを捨てたがらず、こだわりや因習の破壊は本当に覚悟のいる仕事。
しかし”捨てること”にこそ別次元の創造の世界が広がっており突破口があると私は思う。

「攻撃は最大の防御なり」というように、自国をしっかり固めた上で勝機を狙う。
守りは基本姿勢で、好機が来ればいつでも攻めに転じるために常に準備万端であること。
その強固な豊かさを示すだけでも無駄な争いを避け、交渉に好都合の条件が整う。
大きなチャンスに挑み、そこに全力投球するために普段は縛りプレイで力を温存し、自分を高める鍛錬は欠かさない。
F1レーサーは、雨の降り始めには、高速道路で必ず速度を落とし安全運転を心がけるし、プロボクサーが素人の喧嘩に本気になる事はない。
強いものは力を見せつける必要がなく、力を温存する。無知の知もこれと同じで、自慢する人、条件で優劣つける人、自己認識が狂ってる人は、理想と現実が乖離し自分に自信がないからメンツを守る防壁を固めるしかない。
砂上の楼閣は基礎がないから地震が来れば放っておいてもすぐに崩れる。
自分で自分を認められず、他者からの褒め言葉を期待しているからだ。

物事の背景を知ること。
原因は常に自分にあり、賢さや強さを誰かに見せつけるよりも謙虚で広い心であれ。


勝ち負けもない高次元では、目標達成は通過点に過ぎない。
前進し続ける過程に注目すれば、失敗という概念すらなくなり、つまづいてもすぐに立ち上がり、次の機会に応用できる成長への喜びとなる。
だから失敗を失敗とも思わず、常にポジティブであり続ける最強自己肯定サイクルで自分の仕事、取り組んでいることに力を注げば良い。
いつも自分を信じること。

ニーチェの言う、超人とは力への意志に満ちた世界に生きる人を指す。
私もそういう人でありたいと思う。
与えられた善悪や価値、目的などを一切無視し、自身の力への意志こそ「よいもの」として体現できる人間。
自らの決断をもとに、人生の課題に力いっぱい取り組めば、常に最善を尽くしているのだから後悔することもないはずだ。


高みを目指すなら次の次元、超越を目指すだろう。野心家はそういう人ではないだろうか。


野心は人生でどのような役割を果たし、どのような目標を追求し、その理由は何か?


野心は勝つための動機になる。
野心は使命感や忠誠心とはまた違って、魂の叫び、生きようとする力のように感じる。
野心のある人は、荒々しく頼もしく成長に積極的だから私は大好き。
野心は、今の自分よりも高レベルで具体的現実的な目標の動機になると思う。
昨日の自分より明日の自分、常に過去の自分をライバルとし高みを目指すことではないかな。
この姿勢は私も同じ。

Niにも非常に通じるところがあって、野心的なSeに、Niは強い目的意識と見通しで後押しできるからちょうど良いコンビ、或いは戦いの相手だと思う。

私達は真逆の方法で互いに高みを目指す存在。

一撃で眉間に風穴をあけてほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?