ねる

小説 雑文 日記 作品の感想のいずれか

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小説 雑文 日記 作品の感想のいずれか

最近の記事

「遊び」に関する読みたい本

『遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。【游】は絶対の自由とゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。(白川静『文字逍遥』)』 「遊び」に関する読みたい本をリストアップします。 ・『遊びと人間』 ロジェ・カイヨワ ・『遊ぶ日本 神あそぶゆえ人あそぶ』 高橋睦郎 ・『フィクションとは何かごっこ遊びと芸術』 ケンダル・ウォルトン ・『ゲームする人類 新しいゲーム学の射程』 中沢新一、遠藤雅、中

    • 本を読まない若者へ、あるいは本を読んだからにはものを書いたほうがいいということ

      SNSをぼーっと眺めていたら、若者の読書離れが進んでいるという統計に関する話題がちらほらと流れてきた。それを見たわたしは、正直なところなにも思わなかった。ふーん。別にいいじゃん、と思った。それからしばらくはその話題が一定の耳目を集めているようだった。なかには本を読まないと知性が身につかないなんていうとんでもない意見もあったけど、それは単にそのひとが本を読むことで得るものが多かっただけなんじゃなかろうか。でも大半は、わたしと同じような無関心なひとか本屋や出版社の売上を気にするよ

      • 老いた若者

        • 怠惰

          「怠惰は情熱のなかでも最も強い情熱であり実際どんな情熱も怠惰の情熱ほど力強いものはない」 不愉快にならずに怠惰でいることは難しい。世界や世間は一人でいる人間をなにかに駆り立てようといつも躍起になっている。さっきのエピグラフをそのままの意味で肯定することはないとしても、この言葉はあるもっとも信用できる人間が冗談混じりで書きつけたものであることを加味して、無視したいほど見当違いということもないだろう。

          とるにたらないこと

          私だってすごくすごく誠実になりたいのに。ほんとうのほんとうの気持ちを心の一番奥のところで燃やせたら、そのメラメラはきっと私の体を温めてくれるはずだ。それなのになぜ、私はすぐにシニカルになってあの曲がった笑みを口元に浮かべてしまうのだろう。なぜ。なんで。 (それは幼稚なニヒリズムじゃない?) わかってるよ。そんなことくらい。でも、笑われたくないし、馬鹿にされたくない。なにかを真剣におもいたいのと同じくらい、失敗したくない。だってこわいもん。みんなが敵にみえるんだもん。扉をぴ

          とるにたらないこと

          古本屋一幕

          最近古本屋さんに話しかけられるようになった。「今どき文学好きなんてめずらしいね」と言ってなにかと目をかけてくれる。うれしいものだが、なんだか騙しているようでもあり、きまずい。文学が好きだと思ったことは実のところ皆無だ。 一昨日その古本屋さんの友達だという日本文学の研究者がきていて、私のことを紹介してもらった。なに読むの?と訊かれて今読んでるのはヘンリ・ミラーだったが、咄嗟に戦後文学とかですかねと答えた。たぶん無意識になにか気を回したのだ。そのあとは本のことをいろいろ教えても

          古本屋一幕

          お返事「好きな作品十選」

          私のnoteにいくつもコメントをつけてくれくれた方がいました。ずっといいねをしてくれていた貴重な読者様。誰にも見られなくていいかと思ってなんとなく始めたnoteだったけど、いざやってみると読者の存在のありがたさに気付かされました。たったひとりにでも文章が届くのならそれだけで私は結構満足してしまえるようです。というわけで読者のみな様いつもありがとうございます。 コメントの中に私の好きな作品を気にしていただいているものがあったので(そのコメントはなぜかもう消えてしまったのですが

          お返事「好きな作品十選」

          雑談「終わりについて」

          私は「終わり」というものが苦手だ。だからお気に入りのアニメの最終回は未だに見ていない。本は面白ければ面白いほど終盤のページを雑に読み流してしまう。卒業式や葬式では妙にそわそわしてしまって全く式に集中できない。 そもそも物事が「終わる」ということ自体に私は違和感を感じている。卒業式が来ても人生は続くように、なにかの終わりというものは自らの死以外によっては本質的には訪れない。いや、死後の世界がどうなっているかわからない以上「死」すらも私にとって完全な終わりだと断言できない。私の

          雑談「終わりについて」

          日記「店員に対する態度」

          七月六日(木) 「ありがとうございます」と言った時自分の口から出てきた声の愛想の良さに自分で苦笑してしまった。どうやら私は自分で考えている以上に外面がいいようだ。 マクドナルドで瀬戸内レモンフロートを注文すると店員が丁寧な口調でいくつかの業務質問をしてきたのでこちらも丁寧に返事を返した。応答を終えると店員は「ありがとうございます」と愛想良く言った。なのでこちらも愛想良く「ありがとうございます」と返したのだ。 上に書いたのは多少の気遣いは感じられるもののごく一般的なやり取

          日記「店員に対する態度」

          下書きにあった出さないつもりだった文章を適当に手直しして公開した。区別なく機械的に晒していこう

          下書きにあった出さないつもりだった文章を適当に手直しして公開した。区別なく機械的に晒していこう

          感想「『ゴドーを待ちながら』を読んだ」

          有名なサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』という戯曲を読んだ。私には戯曲に関する知識が全くといっていいほどない。それどころかベケットという作家に触れるのさえこれが初めてなのだ。そんな私にとって本作は難解で、意図を読み取ろうとすればぬるりと手中から滑り落ちてしまうような独特の読み味にはただただ翻弄されるばかりだった。それでも本を閉じた後溜息を吐いてしまうほど登場人物の台詞や短いト書きに深く感情移入しながら読むことができた。 察するに戯曲というもののそもそもの特性のせいも

          感想「『ゴドーを待ちながら』を読んだ」

          日記「自分に集中」

          なにも考えずに歩くことは案外難しい。そもそもなにも考えないこと自体が実質的に不可能なのだと言える。そうでなければ誰もわざわざ坐禅など組まないだろう。 だからなるべくひとつのことに集中することが、実はなにも考えない状態に近いのではないかと考える。いや、考えていることをひとつに統合するといった方が正しい。 どういうことか。つまりだ。歩きながら私は今日の夕飯について考えるのに集中していたとする。しかしそのときでも別のことを全く考えないということは実はできない。目の前に電柱があれば避

          日記「自分に集中」

          小説「魚の夜」

          大丈夫だと言い聞かせて深呼吸をした。 窓には色とりどりの魚たちが張り付いていた。赤青緑。あかあおみどりだ。 心臓がどきどきして小学校の頃好きだった男の子のツンと尖った唇を思い出した。 昔ザリガニを飼っていたとき使っていた水槽を引っ張り出して台所に持っていった。手元が狂って蛇口を捻りすぎた。水は飛沫をあげてみるみる水槽を満たした。 重くなった水槽をリビングへ持って戻るとあかあおみどりと目が合った。窓に手をかけて開けようとしたが、外からの風で固くなっていた。精一杯体重をかけたら「

          小説「魚の夜」

          セルフネグレクトと書くこと

          格好つけると文章はかけないというのがここ最近私が得た知見だ。短文なら誤魔化せても一万文字を超えてくるときついものがある。だから格好のついた長文を書ける人というのは自然体で格好をつける方法を心得ている人なのだろう。そういえば「偉そうなのではなく偉いのだ」と言っていた大家もいた。私などはとてもそんな気にはなれないので今日も雑文と呼ぶには相応しい雑な文章を書こうと思う。 文章を書くのは嫌いではない。人に書いたものを見せるのは気後れするが、ものを書くという行為自体は煩わしい事情に囲

          セルフネグレクトと書くこと

          クッツェーのマイケルKを読んだ

          低空飛行で街を見下ろしたい。 マイケルKが宿舎の上を滑空する妄想をしたとき、彼の望みは「自由」ただひとつだった。外へ出ても地獄、職や寝床が用意されているぶん中の方がマシかもしれない状況で、なぜマイケルは外に出たかったのだろう。結局外での暮らしは宿舎にいる時よりも厳しいものだった。マイケルは森の中に浅い穴を掘ってそこで地を這うように生活する羽目になった。食べ物もほとんどなく追われる身にもなったマイケルが自由だったようにはとても見えない。そんな思いをしてまでマイケルが求めた自由は

          クッツェーのマイケルKを読んだ