公園を歩く①(男の嘆きを置いていく)
河島英五さんの名曲です。
この歌を小声で歌いながら公園を歩きます。
阿久悠さんの時代の歌詞です。
自分の父親を思い出します。
泣いた父を見た記憶はなく、
愚痴を聞いたのは数すくなく、
寡黙な我慢強い父でした。
土曜日の午前中は仕事で、日曜日の朝は、地域の同世代の人々が集まって、ソフトボールをやっていました。
集団行動優先の時代だったのですね。
夕方、相撲中継を見ながら日本酒を飲み、陽気になる父を思い出します。
「自分の時間などほとんどないなあ」
と思い、今の個人主義の時代と比べたら、可哀想だと思います。
1985年のプラザ合意で円高になり、地価が暴騰、バブル経済の時代がやってきます。私は地元を離れて学生生活を謳歌していました。
接待かなんかに必要だったかは知りませんが、ゴルフを始めた父がショートコースに連れていってくれた記憶があります。ゴルフは貴族のスポーツ といわれた時代、なんか父がお金持ちになったのでは と錯覚したような気がしました。
アメリカに「追い付け追い越せ」とせかされ、土曜日も半分働いていた父の時代からみれば「甘い甘い。もっと働けや」という声が聞こえてきそうですが、いまの時代も結構大変だよ と反論したくもなります。
しかし、父は、とうの昔にあの世に行ってしまいました。話したくても話せない。
男の嘆きはいつの時代も尽きません。
僕の場合も、「時代遅れ」になってしまっていますが、生息地は、酒場ではなく、公園でのお話になります。
土曜日の公園は、コロナが収まったというのに、あまり人はいません。
休みの夜というのに貸し切り状態で、ヤンキーもいない、外人部隊もいない、静かな旧きよき公園です。
欠かさず「毎日」ではありませんが、かれこれ20年近く前から、夕食の後に歩くようになりました。
芝生のところを、グルグル時計回りに、ひたすら歩きます。
血液中の血糖がなくなり、内臓脂肪が燃えてくるイメージが湧き、心拍数も心の回転数も上がり、「ゾーン」もどきに入ったような感覚を覚えます。
他人と比べない
置かれた場所で全力をつくす。
健康に感謝
給料に感謝
歩くことで、意識にのぼる不安や否定を受け流しているのかもしれません。
満月のとき、雪のとき、日の出のときなど、山登りには及びませんが 景色を愛でることもできるのです。
なかなかどうした、公園散歩。
さあ、待ちに待った休日です。
「男の嘆き」はおいといて、GWを心の底から楽しみます。