漂泊の思い止まず
生の折り返し地点(80が大体の男の寿命だから40歳)をとうに越えて、下り坂のようにみえる……いや、実際下り坂でしかない老いへの道を歩み始めた自分は、気づいてしまったのだ。
時間を他人に与えたり、カネに代えたりするのはもういい加減止めてしまいたいいということに。
なぜなら、ヒトは100%死ぬ。
また、健康寿命は72歳だということも、残された時間を意識させる。
残りの時間は、好きなことに没頭しなければ勿体ない。
しかし、そうは問屋がおろさない。
生活費を稼ぐため、退職するのは怖い。
さらに、組織のトップ層だけでなく、客、議員、取引先、上司だの、近所にいたるまで、世の中には時間泥棒が沢山いる。
時間泥棒は人事権や評価権をもっており、他人との比較や承認欲求にがんじがらめにされている、世の大部分の人々は時間泥棒の思いつきや誤判断にいつも振り回され、時間を盗まれてしまっている。
動物たるヒトは栄養を外に得るため、時間を、カネに代えずんば生きていけないが、なるべく次のような経験を得るためにこそ時間を使うべきだと気づいた。
仲間から真に感謝される経験
(※仲間以外の時間泥棒に注意)
恋人、家族、仲間から必要とされる経験
(※同上)
こころゆくまで没頭できた経験
(※結果論)
よい経験が思い出に昇華し、仲間と共有するなか、最後にヒトは何も持たずに死んで行く。
「生きた証」ともいうべき経験は……遺された仲間の中に、しばらくは残る。
また、人によっては、有形の「生きた証」を後世に遺すことができる。
○法人や機構
○作品
実業家やアーティストになり、自分なりの、「自分の生きた証」を遺せる人になれれば最高ではないか。
雇われず、自分で生きていけるとは、まっこと素晴らしきことかな。
さて、老いを、残り時間を意識してしまうようになってしまったとき、有形の「生きた証」を遺せない大多数の凡人は、どうすればよいのだろうか。
実は、時間をかけるべき経験がひとつ残っている。
さっき触れたが、「こころゆくまで没頭」する経験である。
時間とある程度のおカネさえあれば、叶う夢がある。
旅に出ること だ。
旅に出ることで、時間をカネに代えることによって満身創痍となった自身を癒したり、リセットすることが可能になるのだ。
また、自身が死ぬときに、「行けなかった後悔」に苛まれることがなくなることが大きい。
芭蕉は『奥の細道』という作品を遺したが、凡人は何も遺すことはできないだろう。
家族や友人達との良質な思い出が遺されるが、百年も経てば、凡人の生きた証など完全に消え去るのみである。
「夢は枯野をかけめぐる」
芭蕉翁のお陰で、白河の関や立石寺を訪ねたときに、感慨に耽ることができる。
せいぜい、自分にできることは、良かった旅の思い出を、このノートに書き写すくらいのことだろう。
今のうちに、たくさん旅に出ておかないと、きっと後悔してしまうような気がしてならない。