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そぞろ神の招きvol.1(9.19~田中一村展①)


漂泊しよう。
先達の作品に触れよう。



【諦め】


おカネより自分のための時間。
世間体を気にするのも、競争することにも嫌気がさした。
早期退職して好きに時間を使うことを願い始めた自分。

しかし、世間体を気にせず突き進めるような、生涯をかけて打ち込めるようなコトがないまま歳を食った。
打ち込める対象をみつけないままだと、折角の時間を結局無駄にしそうな自分。

生涯かけて打ち込めて、「機構」なり「作品」とするため、無駄にはならないような、時間の使い方を究めなければならない。

とはいえ、世の大宗を占めるであろう才能なき者、時間を切り売りしてカネを稼ぐのが王道。

年功序列とは、時給換算のこと。

打ち込めるコトがないなら、高い時給の勤めを続けるのがマシだろう。
しかし………

現実は、
あまりにも退屈で、
赤の他人や時間泥棒に搾取され続け、
余暇さえスマホいじりに費消し、
納税マシーンと化し、
時間だけが過ぎて行く。

何度もいうが、
「機構」か「作品」を遺すことこそ、人生の意味なのだと断言できる。

ただ生命を維持するだけでも大したものではあるが、やはり何かが残らないことには、人生の意味はない。

しかしながら、
恥ずかしながら、
それもなかなか何も残らないことになってしまうのが、人生というもの。

せめて、休日には「非日常」を生き、「作品」を産み出すキッカケを得たい。

【そぞろ神】


なんという理由なしに人の心を誘惑する神。すずろがみ。

[初出の実例]「そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず」(出典:俳諧・奥の細道(1693‐94頃)旅立)

辞典より

芭蕉翁は、念願のみちのくへ旅だつ。

「そぞろ神」の誘惑、道祖神の招きゆえだという。

心を狂わせ、取るものてにつかず。

自分にも、そぞろ神がかつて居たと思う。
経験が浅かったが故に。

恋愛だの、新婚前後だの、子供が生まれてからの時期だのが思い浮かぶが、芭蕉にとっては、旅への想いが心を狂わせるという。

経験がないから、是が非でも体験してみたいという誘惑。

いわゆる初体験への憧憬、渇望ということが人生の主眼であることが真理なのではないか。

結婚生活もマンネリ化し、
子供も親離れし、
仕事も責任ばかりが増えていき、ストレス系のドキドキばかりだ。

希望を持てない人生……これから自身に訪れるであろう誘惑なんてあるの?

自分の人生にはもう、「そぞろ神」が降りてこないようになってしまったような気がして、あいも変わらず悶々神に祟られている自分なのであった。

【降臨?】

出勤前、いつものようにモーサテをみていたら、コマーシャルの間に、展覧会のお知らせが流れていた。

日経新聞の主催の展覧会らしい。
どうして日経なのだろう?
わからないが、まあいい。

この人のことは知っていた。
田中一村というんだった。

僕のnoteで幾度かエピソードにふれたが、この人は絵描きだ。

パトロンやフォロワーがいなかったから、自分で生活費を稼ぐほかなかった芸術家だ。

工場で働き、まとまったカネを稼ぐと、生活費を切り詰めながらおカネがなくなるまで絵に没頭するという生活を繰り返したそうだ。

奄美大島の自然を描いたらしい。

9月19日から上野で開かれるのか。
行きたい。

【半月後の楽しみ】

9月以降に、初めて作品に触れるわけだが、悲劇の人だったのかと想像する。

また、奄美大島に彼の人が住んでいた家が遺されているらしいのだが、「庵」のようであるし、ストイックな印象も受ける。

鴨長明や良寛さん、芭蕉の住処も復元されているらしく、隠遁の住処とはどのようなものなのか、自然と興味をそそる。

パトロンが居らず、絵を描く時間をカネに替えたことになるが、それは無駄な時間であったのか?

9月の展覧会で初めて作品に触れることができるし、初めて奄美大島を訪ねることなども視野に入ってきて、旅の夢が膨らんでいく。

やはり、カネも必要なようだ……

稼ぐモチベを刺激しつつ、悶々神を追い払えるかもしれないと思われ、とりあえず良かったかも。
展覧会の様子を記事にしたいという意欲も湧いてきたからである。

           (つづく)


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