日本のコンピュータ産業立ち上げ期にあったIBM産業スパイ事件(後編)
1.初めに
IBM産業スパイ事件に相当する事件はまた形を変えて発生する可能性があります。この時、相手国は米国とは限りません。
前編ではIBMは日立や富士通にどうして見れないソースプログラムの著作権違反を問うことができたのか、どうやって巨額の賠償金を支払わせることができたのかなど、いろいろ気になる疑問点を挙げました。
本編では私なりの回答を書きましたので、参考にしていただきたい。
本文の「米国」「IBM」をあなたの想定する名称に変えて本記事を読んでいただくのも、何かのお役に立つかもしれません。
事件の記録は歴史の陰に埋もれて欲しくありません。だから公開します。しかし、中途半端な読み方はして欲しくはありません。真剣に学ぼうとする人だけにお届けしたく、後半部分は有料とさせていただきます。
2.事件を考える
事件は最大限の効果が得られるよう、FBIとIBMが協力して綿密なシナリオを書き、おとり捜査で日本人技術者を罠にかけ、地位の高い人を事件に関与させ、証拠を揃えた上で、会社が事件に関与したと認めざるを得なくして、米国で事件が起こされました。
最大限の効果とは、相手の立場で考えてみましょう。
日本のコンピューターメーカーが会社として犯罪を認め、和解合意することにあり、合意内容がその成果だと考えて良いと思います。
更に、今回は事件で標的とならなかった企業(注)にも警告となれば上々です。
その結果が、日本のコンピュータ産業、ひいては半導体産業にダメージを与え、米国の産業の地位を脅かすことを防ぐことになれば効果大です。
IBMは米国の1つの企業に過ぎませんが、世界最大のコンピュータ企業であり、米国政府の情報はIBM社のコンピューターで処理されていました。
従って、日本企業のIBM社に対する挑戦は、米国政府に対する挑戦でもあり、IBM社からの保護の訴えは、米国政府としても日本からの攻撃から守るつもりでFBIが協力していると考えるべきかと思います。
この事件の結果、逮捕された日立だけではなく、後の民事訴訟では富士通とも争うことになり、和解契約が成立しています。
和解契約は日経コンピュータ誌に全訳が掲載されています。
この事件から以下の教訓が得られるかと思います。
・売上・シェアが伸び、脅威に感じてきたら、狙われる可能性がある。
・10年以上親密に付き合っている企業でも相手と通じている可能性がある。
・何よりも犯罪に手を染めないで、公明正大にやること。
以下では、今回使われた手口についてできる限り解説します。
日本では使えない手口も含まれています。
注:この事件と類似する別の事件も起きています。
・1987年 松下電器がIBMパソコンOSの著作権侵害を認めた。
この事件が切っ掛けでIBM互換機ビジネスから撤退することになった。
親密な提携関係があったので油断があったのかもしれない。
・1987年エプソンは松下電器の二の舞を避けパソコンの発表を延期。
日電互換機BIOSについて、IBMをNECに読み替えて問題を理解できる。
参考資料
「IBM-日立和解合意書」全訳が日経コンピュータ1983年12月12
「富士通/IBMソフト和解契約」全訳が日経コンピュータ1987年1月11日
3.事件の背景
事件の背景の大枠は日経クロステックの記事に詳しいので、そちらを参照して下さい。
ここではこの記事にないことを選んでお話しします。
3.1.当時の大型コンピュータ
現在のパソコンとメモリ容量などの数値を比べると分かり易いです。
大きさはオフィスルームを1部屋占有するほど大きかった。性能は今のパソコンやスマホに比べて、けた違いに低いものでした。
1970年代、気象庁に納入した大型コンピューターのメモリ容量0.5MBとかいう数字を見ただけでも低性能ぶりが想像できます。
でも当時はこれが最先端でした。
3.2.事件の遠因
国産コンピュータ黎明期1960年代、IBM機に匹敵する大型コンピュータの開発が国産コンピュータメーカーの経営に与えた負担は大きいものでした。
松下電器は1964年にコンピュータ事業からの全面撤退を宣言し、1970年代まで大型機の開発を継続できた国産コンピュータ・メーカーは、富士通、日立、日本電気、東芝のみに絞られました。
1960年代後半は国によ る強力なコンピュータ産業育成・輸入抑制策に守られ、ようやく国産コンピュータが日本に定着しは じめた時代です。
この事件が起きる前、私は通産省の「超高性能電子計算機の研究開発プロジェクト(1966年~1972年)」に参加していました。
日本のコンピュータ産業を育成するための国家プロジェクトです。
参加企業は日立、日電、富士通、東芝、三菱電機、沖電気の6社であり、101億円が投じられました。
開発した主な技術は以下です。
現在のパソコンではどれも当たり前の機能です。
このプロジェクトで獲得した技術で開発した大型コンピュータは、東大や気象庁などの国の機関で使われました。
しかし、民間企業には全く売れませんでした。
世界標準となっていたIBM製コンピュータと互換性がなかったからです。
そのため、開発対象は互換機OSに変えることになりました。
3.2 どんな情報が欲しかった?
互換機(PCM : Plug Compatible Manufacturing)のOS開発のためにはIBMコンピューターの情報を知る必要があります。
その情報を手に入れようとして事件が起きたのです。
知りたい互換性情報とは、アドレス空間を24ビットから31ビットに拡張する方法などです。
超高性能電子計算機の研究開発プロジェクトでは31ビット拡張機能を実現していました。
しかし、IBM互換機でこの日本独自の方法は使えません。
従来のプログラムを動くように拡張する方法を知る必要があるのです。
最近のパソコンの事例で当時の状況を想像してみて下さい。
パソコンではかつて、CPUを32ビットから64ビットに拡張しました。
それと似た問題です。
当時はメモリ価格が急速に下がっており、プログラムのメモリ使用量も急速に増えていたので、いずれ必要になる拡張機能だったのです。
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