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1997年インターネット黎明期の木曽馬の旅 ブログ初めて配信
日本初のブログサービスは2003/12のライブドアで始まりました。このサービスが始まる6年前の1997年、ブログ投稿は簡単ではありませんでした。
あなたにとって、今さらブログ黎明期の苦労を知っても仕方ないかもしれません。しかし、新たな試みで困難に遭遇した時にすべきことはいつの時代も同じです。
直面している問題を解決することです。
そのために、今使える道具を最大限に活用することです。
苦労もあれば、やっと克服した、やってよかったという感動もあります。
チャレンジして損はありません。
ブログ以前の時代のコミュニケーションをご覧ください。
木曽馬との出会い
1997年の故郷高鷲村(現在の岐阜県郡上市高鷲町)でのこと、従弟が細辻晋さんという木曽馬を飼っているひるがのホープロッジのオーナーを紹介してくれました。
木曽馬などの在来馬は農耕が主な用途だったため体が小さく、足は太く、走るのが遅いという特徴を持っています。
昭和以降の農業機械化で在来馬は減少傾向です。木曽馬は一旦は絶滅しましたが、戻し交配などの育種(品種改良)技術や保護努力で、現在は130頭ほどまでに回復してきています。
日本在来馬とは?
北海道に北海道和種(道産子)、長野県木曽地域を中心に木曽馬、愛媛県今治市に野間馬、長崎県対馬市に対州馬、宮崎県に御崎馬、鹿児島県にトカラ馬、沖縄県宮古島に宮古馬と与那国島に与那国馬がいます。これら8馬種のうち、御崎馬は国の天然記念物、木曽馬と宮古馬は県の天然記念物、野間馬は市の指定文化財、与那国馬は町の天然記念物及び北海道和種は道の文化遺産に指定されています。
木曽馬の旅の計画
細辻さんは「政府に保護を申請したこともあるが、『木曽馬は家畜であり、自然の動物ではない。自然保護の対象にはならない』との返事でした。
高鷲村は「高鷲村100周年記念」でもあり、記念事業の一つとして『木曽馬と500キロの旅』を計画し、在来馬の保護を訴えながら東京まで行こうと考えているとのことでした。
主催 岐阜県郡上市高鷲村
高鷲村の実行委員会 37名
後援 岐阜県
木曾馬保存会
(社)日本馬事協会
(社)岐阜県獣医師会
(財)21世紀村づくり塾
(学)學酪農学園大学
(財)切農林漁業体験協会
朝日新聞名古屋本社
中日新聞本社
岐阜新聞
読売新聞
名古屋テレビ(株)
NHK岐阜放送局
郡上郡観光協会連絡協議会
協力 日本中央競馬会馬事公苑
協賛 高鷲村商工会
(強)高鷲村観光協会
私はこのとき、細辻さんにインターネットで多くの人に木曽馬のことを知らせてはどうですかと持ち掛けたのが、木曽馬の旅ブログの始まりでした。
ブログ記事投稿端末、カラーZaurusとの出会い
当時、神奈川県は神奈川でのインターネットの普及を推進するための神奈川マルチメディア推進協議会という組織がありました。
協議会に協力をお願いして、「インターネットを使ってどのように木曽馬の旅を盛り上げるか」を相談しました。
運よく、「カラーZaurusの使い方」(ムック本)という解説本の著者の井出和明さんから「何か協力できるかも知れない」と申し出がありました。
シャープ株式会社からカラーZaurusを借りて、木曽馬の旅を中継してはどうかという提案です。
当時、シャープ株式会社はカラーZaurusという小型パソコンを発売していました。
現在のスマホに比べれば大きく重いものでしたが、ノートパソコンと比べれば小さく軽く通信機能があって、スマホ同然の使い方ができる手持ちパソコンでした。
今のスマホと同様、写真を写して記事を書き、通信で送るという機能がありました。記事投稿端末に使えそうです。
ライブドアブログサービスが提供される6年も前のことです。
これがブログであるとの認識はありませんでしたが、やってみることになりました。
しばらくしてシャープの営業担当の方からカラーZaurusをお借りできることになりました。
用意していただいたブログページには「木曽馬の旅日記」と名付けました。
このブログページは、木曽馬の旅1997/5/25岐阜県郡上郡高鷲村出発から1997/6/6東京都世田谷区の馬事公苑までの13日間の投稿の予定です。
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木曽馬情報のメルマガ配信
1997年当時ブログというものはありません。
最初にホームページを作成して、読者への情報提供はX-mail(現在のまぐまぐ)というメルマガで行うことにしました。
当時、メルマガは始まったばかりで、X-mailのアカウントは14番だったと記憶しています。
まぐまぐの創始者の深見英一郎さんは全てのメールを読んで下さり、時々コメントをいただきました。
まず木曽馬一頭一頭の名前、特徴、性格などを紹介して、それから毎日の様子の投稿です。
当時のインターネット利用者は少なかったのですが、返信してくれる方はとても多く、たくさんのがんばれという励ましのメールが届きました。
ある人は木曽馬の思い出を知らせて下さり、米国在住の日本人女性からは「米国ではポニーも絶滅の危機に瀕しており、私たちは保護しようと努力している」と知らせて下さいました。
日本中央競馬会の方からは「メルマガで知らされた木曽馬の状況を理事会でも話題になった。理事から『我々にも木曽馬の保護する責任の一部があるかもしれない』などとの発言がありました」と知らせて下さいました。
岐阜県や高鷲村(合併後は郡上市高鷲町)は「木曽馬500キロの旅」のパンフレット作成費用の一部を出してくれたり、木曽馬の旅隊の同行してくれたりと、多くの協力がありました。
1997/5/25 细辻氏は木曽馬牧場で乗馬練習をしてきた木曽馬隊の皆さんと東京への500キロの旅に出発しました。
木曽馬が旅に出る
現在、岐阜県から東京までの道路に馬道はありませんが、道交法には馬に関する規則が多く残っています。
道交法ができた1947年当時は車が少なく、馬が道路を歩いていました。
それから50年、もし今の時代、何頭かの馬が交通ルールどおりに道路を歩いたら、何かしらの問題が起きることが予想されます。
細辻さんは事前に計画書を地元警察署に提出しました。その結果、多くの警察署から「交通安全のため、行列を先導させて欲しい」との申し出がありました。
旅の途中での出来事
長野県開田村は木曽馬の故郷です。だから、木曽馬の旅のルートに入れたのだそうです。
木曽馬の旅行団が開田村に来たとき、一人の老人が現れてこんな話をしてくれました。
「私は若いころ木曽馬と大陸に開墾に行ったが、帰国時に連れて帰ることができなんだ。今でも胸が痛くなる、忘れ難い思い出だ。」
ある日、隊員の沢さんがこの老人の話を記事にして、Zaurusで送ってくれました。
私の役目は木曽馬旅日記を受信し、ブログに掲載することでした。
受け取った記事はすぐにブログにアップロードしました。
更にこの話を日本放送のパーソナリティの波多金さんに送りました。
翌日早朝、はたえ金次郎さんは日本放送のラジオで、全国にこの話を流してくれました。当時、多くの人がラジオでこの話を聞くことになりました。
交通事故の発生
木曽馬の旅の一行が神奈川県海老名市辺りに到着した頃から、木曽馬旅日記が届かなくなりました。
私は彼らの様子を知りたくて、彼らに会いに行くことにしました。
彼らに会ってみると、彼らは塞ぎこんでおり、疲れているようでした。
聞けば「この近くで事故に会って、隊員の女性一人が怪我をした、ガード下で電車の音に驚いた木曽馬が立ち上がり、騎馬の女性を振り落した。彼女の怪我は骨盤骨折だった。」と言うのです。
隊長の細辻さんは、この日を旅の最後の日にすると決めました。
この日最後の「木曽馬の旅日記」をアップロードしました。
後に細辻さんは「次は木曽馬を連れて京都に行きたい」と言っていましたが、5年後に彼は世を去り、木曽馬は京都に行くことはありませんでした。
その後細辻さんの経営していたホープロッジは人手に渡り、今は別の人が経営しています。
反省点
隊長の細辻さんとの連絡は手紙でした。
しかし、隊員の中にはDocomo社員もいたこともあって、若い隊員たちから早い時期にインターネットの利用が提案され、活用することが決まっていました。
今では当たり前のことが、当時はインターネットの黎明期で、初めて使うものもありました。
例えば、シャープから提供していただいたブログ環境、まぐまぐと名付ける前のメルマガなどです。
他の自治体でも同様でしょうが、私の住む横浜および故郷の岐阜県もインターネット普及のための推進組織ができており、困った事があればすぐに相談できる状況でした。
何かやってみるにはいい時代だったと言えます。
実際、何でも使ってみました。使ってみると「使ってみてどうだった」のフォローがすぐに入り、問題点の解決策を考えてもらうことができました。
反省点としては、後で考えれば当たり前ですが、木曽馬キャラバン隊の負荷が大きすぎました。
長時間歩き、キャンプ地で寝場所を準備するので、かなりの仕事量があります。
それに加えて、記事を書いて情報発信するという作業を強いてしまいました。
もっと負担軽減策を事前に考えておくべきでした。
細辻氏との対話
-どういうきっかけで始めたのですか。
人生最後に大きなことをやってみたいと、前から計画していました。そのために、いろいろ準備をしてきたという訳です。
-木曽馬の旅情報をインターネットで発信したそうですね。
インターネットのことはスタッフのなるみさんから聞いていたんだが、ようわからなんだ。
だが、PR効果がありそうだと思ってやってもらうことにした。
スタッフの人間もようわからなんだ。
最初にホームページを作って見せてもらったのが96年の8月、これを見た人が日本馬術連盟の総会で、「日馬連としても支援すべきではないか」とこのホームページと木曽馬で500キロのプランが取り上げられることになるとは考えもしなかった。このことはメールで応援者から知らされたと聞いた。
情報発信の方はスタッフのなるみさんと沢君がやってくれることになって、私が記事を書くことにしたんだ。
なるみさんも記事を書いてくれたんだが、なるみさんの記事の方が人気があったんではないだろうか。
事前に発信した情報を受け取る人に登録してもらっていたので、約400人に旅情報を電子メールで送ったと聞いてる。
おかげで、旅の応援に駆けつけてくれた人の中には、メールで覚えた馬の名前まで知ってる人がいた。
-「木曽馬と500キロの旅」は花火のような一時的なイベントに過ぎないのではありませんか。
いやー、これがきっかけで,いろいろな話が舞い込んできた。
「木曽馬を貸してもらえないだろうか。箱根を歩かせてみたい。」とか「鎧甲で身を固め、関ヶ原で合戦をやらせてみたい。」なんていう話が来てるんだ。
計画書、予算、企画書、報告書
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