A4小説「ハーモニー」
「鮫島さん、今日どこかで5分だけ話を聞いてくれるかしら?」と女性従業員に言われ、(うわぁ、嫌だなぁ)という気持ちが顔に出ないようにすることくらいは、主任に上がった頃からできるようになっていた。「了解。休憩のときか、帰る前にでも。」と、被服チェックの用紙が綴じてあるバインダーを取りながら鮫島は答えた。稼働前の工場はまだ静かで、箒が塵取りに当たる音が聞こえる。各機械の清掃が終わってチャイムが鳴ると朝礼が始まる。
14人の女性従業員たちは朝礼で、前列と後列に7人ずつ並ぶ。前列の人が振り返りお互いの被服チェックをする。作業服や作業帽に破れ・ほつれが無いかを確認すると、次は手指のチェックに入る。怪我などをしていて製品に血液が付着してはいけないからだ。怪我のある場合は金属探知機に反応する特殊な絆創膏で保護し、1日の終わりに回収する。異物としてケースなどへ混入することを防止するためだ。絆創膏でも備品でも、失くなったことに気付きしだい作業を止め、機械まわりや通路を全員で探すというルールまである。被服・手指の確認が終わるとそれぞれの持ち場へ移動し生産を始める。
話を聞いて欲しいと言っていた土井は休憩の時間にはしっかりと休憩をし、終業後に鮫島のもとへとやってきた。「あの子、曽根さん、やっぱり休憩が長い気がするのよ。いつも時計を見てるわけじゃないけど、20分は戻ってこないんじゃないかしら?」鮫島は(いつも時計を見ているな)という顔をするのを堪えた。「対照的に柏木さん、朝来るのが早いのよね。30分も前に来られちゃ、私たちが遅いみたいじゃない?」(5分はとっくに過ぎましたよ)という顔を、鮫島はした。その後もしばらくしゃべりスッキリした土井は「二人を足して割ったらちょうどいいんだけど。」と言い残して帰っていった。従業員の愚痴を聞くのも仕事のひとつだと自分に言い聞かせ、鮫島も事務所の鍵を閉め会社を後にした。
週末、鮫島は娘の出場する合唱コンクールを観に市民ホールを訪れていた。娘の出番は午前中の早い時間に終わったが、昼前までは会場に残って一緒に観ていた。ハーモニーは想像していたよりも素晴らしく、小学生の発表会程度と思っていたことを反省し、娘との午後の買い物の約束がなければ最後まで観ていたいと思ったほどだった。
ショッピングセンターで洋服を買い、休憩に立ち寄った喫茶店で「今日の合唱にとても感動した。」と娘に伝えると、合唱について嬉しそうに話をしてくれた。中学ではコーラス部に入りたいと言っていて、部活と言えば野球やサッカー、剣道といったものしか頭に浮かばないことを恥ずかしく思った。
明けて月曜日、鮫島はいつものように出社し、早めに来る柏木、大体の人と同じ時間に来る土井、遅刻寸前のギリギリに来る曽根、という順に挨拶をして朝礼のために現場に向かった。前後に並んだ従業員たちのそれぞれの雑談がチャイムと同時にピタリと止んだとき、鮫島はふわりと鳥肌が立つのが分かった。朝礼を終え、足早に事務所に戻る鮫島は「人は、足して割る必要なんてない。」と思いながらPCを起動し、「合唱」「社会人」「コンクール」と検索していた。