A4小説「求人広告」

 1時間前に仕事を辞めてきた柴崎は、路地裏にある喫茶店の前で立ち尽くしていた。
 業務内容が嫌、とかではなく、人間が無理、というのでもなく、なんとなく自分の事が嫌になっていた。勤めて数年になる会社だったが、もともと無口な柴崎にとって、事務員さんたちによる勤務時間内のどうでもいい私語や大きな声は精神的な苦痛となっており、そのストレスが溜まりに溜まって耐えられなくなっていた。上司に相談をしてみたものの「多少の私語くらい構わんだろう。元気なのは良いことだ。」と一蹴された。イヤホンや耳栓を試しても話し声はすぐに気になり、柴崎は愛想笑いすらできなくなっていた。「40~50分にも及ぶ私語は『多少』なのだろうか。他の会社もこんなにうるさい環境で仕事をしているのだろうか。やはり自分の方がおかしいのだろうか…。」考えれば考えるほど何が正しいのか分からなくなり、「会社」というよりは「社会」で生きていく自信が失くなってきていた。
 有給が15日と半日残っていたので、柴崎は午前で仕事を終え職場を後にした。次の仕事はまだ決まっていなかったが、少しだけ余裕のある貯金としばらくの休暇で、気持ちはいくぶんか楽になっていた。ただ、上司に相談した際の「元気なのは良いことだ。」という言葉が心のどこかに引っ掛かっていた。「『元気なのは良いこと』かもしれない。しかしそれは『肉体的、精神的に健康』という意味であって、うるさかったり騒がしかったりすることとは別なのではないか。」「自分のようにあまりしゃべらず、ハツラツとしていないことは悪いことなのだろうか。」「笑顔もろくに作れない、自分は少し鬱なのかもしれないな。」せっかく楽になっていた気持ちがまた暗くなってきたとき、気が付けばいつもの帰り道を外れ路地裏を歩いていた。そしてさらに歩いたところにあった喫茶店の前で、柴崎はゆっくりと立ち止まった。
 「アルバイト募集。根暗で、無口で、後ろ向きな人。」入り口のドアの横にはそう書かれた紙が貼られてあった。いたずらなのか本気なのか、落ち込んでいたところに理解の追い付かない文言が目に飛び込み混乱し立ち尽くしていた柴崎だったが、「明るく、元気で、前向きな人」ではなく、その真逆を募集する店主とはいったいどういう人なのだろうと、次第に興味が湧いてきていた。
 店に入ると「いらっしゃいませ。」と聞こえた気がした。広い店内には数人の客がいたが、山奥のような静けさだった。湯の沸く音が一番大きな音のようだった。一人で切り盛りしている店主は思ったより若く、柴崎よりも少しだけ年上のように見えた。求人のことについて尋ねると「生豆の仕入れや書類の管理などに人手が欲しい。」という。聞きたいのは「根暗で無口で後ろ向き」のことだったので聞いてみると「大きな音や声が苦手で、あまりに積極的に話かけられると疲弊してしまう。」とのことだった。「応募がなくて…。」と残念がる店主に「根暗で無口で後ろ向き」という文言が人を寄せ付けないのでは?と柴崎は伝えた。「例えば『物静かで人当たりが良く』とか…。」と言いながら、根暗で無口で後ろ向きな自分の性格にハッとし、その場で面接のお願いをした。「君は根暗かぁ。」と笑う店主に「物静かなんです。」と柴崎は答えた。表情は自然と緩んでいた。

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