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小説 フィリピン“日本兵探し” (1)

船が浮かぶ海は透明で、白い砂の底がその透き通った海をさらに美しく演出する。遠くに目をやれば、この海がエメラルドグリーンに色を変える。雲一つない空の青さは、肌に汗をにじませる空気の暑さを忘れさせた。

1999年7月、タカシたちは小さな地方空港があるフィリピン・レイテ島からエンジン付きの木造の古ぼけたボートで、すぐ隣にある四国ほどの大きさのサマール島に向かっていた。その島に向かったのは、ある情報があったからだ。

1カ月ほど前、タカシはニュースデスクのノブから、ある1人の人物を紹介されていた。久留米市で保険の代理店を営むマサだった。

マサは1945年、終戦の年の生まれ。父を沖縄戦で亡くし、レイテ戦で叔父を亡くしていた。50歳を過ぎて、偶然、レイテの激戦を生き残った80代の元陸軍の兵長だった老人と、80前の元小隊長だった老人と知り合った。彼らの戦争当時の話を聞いて、マサが思い立ったのは、戦争死没者の遺骨収集。戦地で亡くなった日本人を国に連れ帰るという仕事だった。

レイテ戦は、1944年(昭和19年)10月20日から終戦までフィリピン・レイテ島で行われた、日本軍とアメリカ軍の陸上戦闘である。日本兵約8万人など、米兵、フィリピン人、計10万人が命を落とした。

戦争が終わって50年以上がたち、まもなく2000年を迎える。そうした世紀をまたぐ時期においても、日本は、さまざまな面であの戦争の清算を終えておらず、戦争死没者の遺族が求める遺骨収集作業などに進展は見られない。

フィリピンでの遺骨収集や慰霊碑の建立、小学校の建設という、マサのライフワーク的作業は、年を追うごとに本格的になっていった。

そのマサが、タカシの取材であることを語った。遺骨収集にまつわる話といえばそうなのだが、ニュースバリューが明らかに違う。事実であれば、世紀のスクープという目が飛び出るような大きなネタだった。

「日本兵がいるらしい」
それも残留日本人とは違う、戦争が終わったことすら知らない。まだ日本はアメリカと戦争をしていると思っている日本兵が、今向かっているサマール島にいるというのだ。
日本兵の話では、1974年にルバング島から帰還した小野田寛郎氏生存のニュース以来となる。

タカシのバックパックには、デジタルビデオカメラと、原稿を送るパソコン、そして総務部に掛け合い入手した、衛星携帯電話のデモ機が入っていた。

「もう見えてきたばい、サマール島」
マサが皆に告げた。これまで考えられなかった冒険が始まろうとしていた。タカシは、自分が歴史の証人になるかもしれないという、興奮と緊張を全身に感じながら、目前に迫ってきた島影を見つめた。

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