4.公正証書遺言を作成する(その2)
翌日。曲谷さんは車椅子に乗ってやって来た。長女の靖子さんの付き添いで。目を瞑っている。
(これは…意思能力や遺言能力は大丈夫かな)
意思能力とは、自分に関わることを判断し決定する精神能力のことだ。日付がわからなくなったり、自分の名前が言えなくなったりすると、この意思能力は認められない。結果、単独で契約を締結することは認められず。後見人を選任することが必要になる。
この意思能力を欠くと、通常遺言能力も認められない。遺言能力を欠いた状態で作成された遺言書は無効となる。
事務所の入り口で車椅子が止まると、曲谷さんはパチと目を大きく見開いた。
曲谷「よう」右手をひょいと上げた。
津山はさっと前に出て深々と一礼する。こういう所は全くそつのない人物なのだ。
津山「ご無沙汰しております。相変わらずご健勝そうで何よりです」
曲谷「久しぶりだのう。喜八君の葬儀以来かな」
普通の受け応えである。意思能力に問題はなさそうだ。きっと先輩も確認する意味を込め挨拶している。
津山「あの時は雄渾なる弔辞をありがとうございます。オヤジもきっと喜んでいることでしょう」
他の職種もそうであろうが、法律事務所の仕事の半分は良好な人間関係を構築することにあるといえよう。良好な人脈が良質な仕事を運んできてくれるからだ。
会議室に入ると、
曲谷「ついこの前、マンションを建ててね。駅前の一等地だよ」曲谷は縷々と話し始めた。
津山「相続税対策ですね」
1億円をそのまま遺産とすると、相続税は2024年現在の税率30%で3000万円となる。結構取られるという感じではなかろうか。
1億円の更地を相続する場合も同じ理屈になるが、土地上にマンションを建てると税額は大きく変わる。借地権付きということになり、70%で評価されたりする。つまり、1億円の土地は借地権の負担分を加味して7000万円に減額され、相続税は7000万円×30%=2100万円となる。900万円の節税効果というわけだ。結構大きな節約だ。
曲谷「で、あらかたの事は始末がついたので、ここらで遺言書を作成しておこうと思ってな」
資産運用の段階は終わった。つまり資産のポートフォリオ(資産の構成)の最終版が仕上がったので、ということであろう。
曲谷「これがわしの考えた遺言書の中身のメモだ」
津山「拝見いたします。その間にお持ちいただいた資産関係の書類をコピーさせていただきます」
曲谷「おう、これだ」
不動産の登記事項証明書、固定資産税納税通知書、預貯金通帳、証券会社の取引残高報告書、純金積立の年次報告書である。綺麗に揃えられていた。
遺産の書類を完璧に揃えてお越しになる依頼者は滅多にいない。こちらで自治体や金融機関に照会をかけ調査することが多いのだが、その作業を省略できるのは本当にありがたい。
津山「藤原君、全てコピーして」
藤原「はい」
コピー機の横の台に書類を広げ順番にコピーしていく。なるべくしわがつかないように気をつけて。
藤原「なるほど。これは勉強になるなぁ」
コピーしながら俺はしきりに感心した。
曲谷さんの財産で最も多くを占めるのが不動産。自宅は評価額6000万円の一戸建て。あとは収益物件の賃貸マンションが20棟で総額100億円。
現金と預金は合わせて5000万円ほど。株式に10億円、米国株に5億円、投資信託に3億円、債券に3億円。そして、金に2億円。
家賃収入が年間5億円、配当収入が年間1億円だ。まさしく富豪の財源である。
(投資のポートフォリオの良い参考例だ。理想的なアセットアロケーションの一つだよ)
アセットアロケーションとは投資資産の配分のことである。俺の資産1000万円を活用し、その投資配分を真似しようと思ったのだ。実物不動産の投資はさすがに真似できないが、他は真似することは比較的容易だ。
法律事務所内で仕事上知り得た事項は厳格な守秘義務により口外は一切許容されないけれど、こうやって知恵として吸収する分には構わないからね。