6.怒涛の遺言執行
遺言書作成から三ヶ月後。曲谷さんは死去した。やはり脳梗塞が致命的ダメージたったのだ。
遺言者の死亡と共に遺言執行の職務が始まる。遺言書には津山義博、つまり我が先輩が遺言執行者に指定されていた。
津山「遺産の調査はおおよそ終わってるな?」
先輩は念を押した。というのも、遺言執行者は、速やかに相続財産の目録を作成して法定相続人に交付しなければならないからである(民法1011条)。
藤原「ええ。膨大な遺産であるから事前に調査しておいた方が良い、とのことでしたので」
遺言執行事務において最も時間を要するのは遺産の調査だ。だから、依頼者である遺言者や御家族の協力を得て、生前に可能な限り調査を済ませておくべきだ。さもないと、遺言者の死後、予想外の財産が出てきて慌てることになる。
曲谷さんは資産家。どこに眠れる資産があるやも知れぬ。津山弁護士はそれを見越し生前の調査を俺に命じていた。
俺は娘の靖子さんと連絡を取り合い、詳細に確認しておいた。まあ、家族の預かり知らぬ遺産が多少なりとも出てくるのは常であるが、それは仕方ない。本人も家族も失念しているということもあるからだ。
津山「よし。では、遺言書の内容を法定相続人に通知することにしよう。民法…えっと何条だっけ?」
藤原「1007条2項です」
俺はすらすらと法文を答えた。数年前まで六法と睨めっこしていたのでこれぐらい朝飯前だ。
津山「さすが司法試験を闘ってきただけのことはあるな」
藤原「しくじったんで。全然自慢になりません」
津山「そう言うな。いつか君の武器になる時が来る」
藤原「そうですかね」
俺は思う。裁判官や検事・弁護士などの専門職に就く以外に法律の素養が生きる場面があるだろうか。
今は法律事務職員であるから多少なりとも活用できてるけれど、その見返りは投じてきた資金とエネルギーに見合っていない。事務職員の大半は低賃金だ。それだから、心の奥底ではずっと忸怩たる日々だ。
正直「落伍者だよな」といつも思っている。金融機関や公務員の同期の連中を見てつくづくそう思う。
同期の連中と少しでも伍していくため投資に励んでいるが、ようやく1000万円に到達した程度だ。同期の高額年俸の足元にも及ばない。
気を取り直すと弁護士に確認した。
藤原「どうしますか。一度相続人の皆様に事務所にお越しいただきますか」
津山「遺言書の内容を郵送にてお知らした上で、全員にお越しいただき、そこで目録を交付するとしよう」
遺言執行において速やかに動かねばならない理由の一つに相続税の支払いがある。相続開始すなわち遺言者の死亡から10ヶ月がタイムリミットなのだ(相続税法27条1項)。
10ヶ月と聞くと結構時間があるように思うかも知れぬが、その実あっという間である。税金は待ってくれないので、速やかに遺産の全容は把握しなければならい。さもないと納付すべき相続税額が確定しないからだ。
入り組んだ権利の物件などもある。特に不動産が曲者だ。先先代から登記がそのままの場合もある。その場合には、同意書面を取り付ける関係者が多岐に渡る。あっという間に数ヶ月を経過してしまうのだ。
藤原「分かりました。すぐ段取りをつけます」
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