7.債権差押命令(その2)

 土曜日の午後3時。俺は影山が経営する茶臼山の銭湯の前にいた。見上げると煤けた看板に『地獄湯』と書かれてあった。右から左の字の並びから察するに昭和初期の創業と思われた。それにしても…

藤原「凄い名前の銭湯だな」

 でも、天下の名湯の別府温泉にも『血の池地獄』という温泉もあることだし。それほどおかしくないのかも知れぬ。地獄の罪人よろしく湯に浸かるとしよう。

 暖簾をくぐると、そこにはまるでタイムスリップしたかのような、木の下駄箱がずらりと並んでいた。

藤原「懐かしいなぁ」

 こんな銭湯がまだ大阪に残ってたなんて。

 スニーカーを下駄箱に入れ、鍵板を取ると、ガラリと扉を開ける。すると、中肉中背の-こういっては失礼だが-これといって特徴のない男が番台に座っていた。

(この人が…そういや影山さんと面と向かって会うのは初めてだな)

 もっとも。人間というのは、身にまとう空気、つまり雰囲気で互いを察するものである。

影山「おう、藤原さんだね。約束通り来てくれたんだね」

藤原「藤原です。直接お目にかかるのは初めてですね」

影山「それもあって一度会ってお話ししたくてね。でも、きっちり約束通り来るとはさすが法律事務所の人間だね」

藤原「約束ですからね。それと、たまには銭湯でひとっ風呂もいいかなと思って来ましたよ。しかもお客さんまで紹介してくれるとあってはね」

影山「まずはゆっくり湯に浸かってよ。その紹介する人もまだ来てないし」

藤原「そうします」

 俺が服を下着を脱いでいくと、

影山「結構いい体格してんじゃん。何かしてるの」

(ずっと見てるのかよ)背を向けたまま俺は苦笑した。

藤原「筋トレとランニングぐらいですけどね」

影山「へー。そんなことで、そんな立派な肉体になるのなら俺もやろうかな」

藤原「トレーニングも大事ですけど、決定的に重要なのは食事です。20km走っても暴飲暴食してたらやっぱり太りますよ」

影山「え、そうなの」

藤原「そうです。食事にさえ気をつけていたら、自然と体は絞れて来ますよ。無理なトレーニングなど必要ないです」

影山「へー。そっちの相談にも乗ってよ」

藤原「いやいや。それはジムのトレーナーに相談した方が良いですよ。彼らは栄養のプロなんで」

影山「そうか…ん…そうか!」

 影山さんは俺の言葉に何か閃いたようだ。

影山「そうだ!ここにジムを併設するのはどうだろう」

藤原「それはいいアイデアですよね。筋トレした後は、必ずシャワーを浴びるんで。隣に銭湯があれば間違いなく利用しますよ」

影山「藤原さん、あんた、コンサルの才能あるよ」

藤原「思いついたのは影山さんですよ。とにかく風呂に入ります」 

 湯から上がると、小太りの男が丸椅子にちょこんと座っている。年齢は三十前後だろうか。

金山「藤原さんですか」

 どうやらこれが紹介客のようだ。

藤原「ええ。藤原です。服を着ますのでお待ちください」

 そこに影山がやって来た。

影山「ま、バスタオルのままでいいじゃない。今日は暑いしさ。ほい、これ」と瓶のコーヒー牛乳を渡してくれる。

 そういやこの銭湯ではクーラーをまるで効かせていない。経費節減かな。

藤原「ありがとうございます。おいくらですか」

影山「奢りますよ。その代わり、これからもちょくちょく来てくださいよ」

藤原「分かりました。ここは電車で10分ほどなので。これからもお邪魔させてもらいますよ」

 コーヒー牛乳を飲む干すと、自腹でフルーツ牛乳をおかわりした。それを飲みながらバスタオルを巻いたまま、マッサージチェアのある廊下で話を聞くことにした。当然だが影山には席を外してもらった。

藤原「そうですか。ご友人に200万円を貸したが全く返済してくれないと」タブレット上にふんふんとメモしていく。

金山「ええ。友人の西川健太郎君がネットショッピングを始める、絶対儲かる、でも元手がないのでなんとか貸してくれというので、なけなしの定期貯金を解約して貸したんです」

藤原「そのネットショッピングはどうだったんです?」

金山「全くの閑古鳥で。完全に当てが外れたようです」

藤原「なるほど。それで行き詰まったという訳で。ところで契約を証明する書類はありますか」

金山「ええ。これが借用証書です」

藤原「ああ。文具店で売っている雛形のやつですね」

 さっと一瞥した。定型の契約書だから何かを心配する必要もない。ただ、俺の素っ気ない仕草に金山は不安になったようだ。

金山「まずいですか?これじゃ」

藤原「とんでもない。立派な契約書です。口頭でも契約はしっかりと成立します。ただ、その証明に文書がある方が良いというだけです。だからこういう風に紙面に契約が記載されているだけで立派なものです。ところで、その西川さんには返すアテ、つまり預金とか何か資産はあるんですか」

 すっからかんの債務者を、どんなに厳しい追い込みをかけようが意味を全くなさないからだ。

金山「あります。彼の別の友人から聞き込んだところ、近頃、スポーツクジで400万円を当てたらしいんです」

藤原「なるほど。で、この契約書には公正証書作成の委任も規定されている」

金山「ええ。ですので公正証書も作成しました。強制執行できると聞いたので。手数料7000円です。余計な出費が痛かったですけど」

藤原「なんだ。そこまで理解されているのならば、相談に来なくても良かったのではありませんか?」

金山「それがですね」

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