西多摩の火縄銃
西多摩の戦国史で、火縄銃の存在が明確に記されているものが、辛垣合戦である。家臣・谷合重久信の残した『日記』によると、伊勢御師より譲られた火縄銃が一挺存在していた。
三田弾正vs北条氏照
どう考えても、小田原から最新鋭の火縄銃が導入されている氏照にとって、山城攻めの最中に撃たれる鉄砲は脅威である。
竹を束ねた楯については、武田信玄の武将・米倉丹後守重継が天文二二年(1553)刈谷原城攻めで考案するもので、武田の秘密兵器。北条との対陣で見せていなければ、知られていない。察するに氏照の軍勢は楯のない無防備を余儀なくされていたのだろう。
火縄銃は操作する技術と、原理を理解し用いる人材が必要とされる。鉄砲足軽などと記せば軽輩の取るに足らぬ者と思われがちだ。が、少なくとも織田信長が尾張から進出していない時代に、西多摩で火縄銃を用いる特殊技能者が存在していたことに注目したい。
この人物は、「梅の花の咲く処」でも扱っているので、注目して欲しい一人である。
まだ、間に合います。
「梅の花の咲く処」
2024年3月、皆様のお手元に!