浮世絵という方程式
房州日日新聞連載作品「真潮の河」。
江戸捕鯨の祖・醍醐新兵衛にピックアップしていますが、W主演ということで、本作品ではさりげなく菱川師宣の江戸絵画界を開拓していく姿も描いております。
世間では、彼をして「浮世絵の祖」と称しております。
でも、ふと思う。
浮世絵とは何ぞや
方程式があるのかな。
浮世絵とは、主に江戸時代に日本で盛んだった木版画や絵画の一種で、当時の日常生活を描いた芸術作品です。
なるほど。江戸時代初期に成立した、絵画のジャンルのひとつ、なわけですね。安土桃山から江戸時代までの絵画は、公家や大名などの庇護による土佐派や狩野派といったブランドが主流。承応年間の頃にブランドが衰退して、力強い庶民階級による風俗画が描かれるようになったことが、浮世絵誕生の秘密。
その渦中にどっぷりと飛び込んで足掻き藻掻いて泳ぎ切ったのが、菱川師宣なのだろうね。
浮世絵の作品形態は、筆で直に描いた肉筆画と刷り上げていく基盤の木版画として大別される。特に後者は、大量生産とそれによる低価格化が可能な版画形式を確立した。
いまのトレンドを先取りした版元の企画の下、絵師(作画)、彫師(原版彫)、摺師(印刷)の分業体制が確立されて大量に部数を摺ることで廉価な販売が可能になったし、貸本という版本システムが出来た。
来年の大河ドラマは、この版元を主役に置いたということで、着目点としては実に面白い。
「浮世絵」の語の初出は、延宝九年(1681)の俳書『それそれ草』(知幾軒友悦編)での
「浮世絵や 下に生いたる 思ひ草 夏入」
であるとされる。勿論、諸説もあるし、正解は実のところよく分からない。庶民文化ですからね。
浮世とは。
平安時代初期に見られる「苦しい」「辛い」を意味する「憂し」の連体系である「憂き」に名詞の「世」がついた「憂き世」が語源とされ、『後拾遺和歌集』の後くらいから「うき世」という単語が多用されていく。
江戸時代になるとしたたかで威勢のいい庶民のアイデンティティだろうか、真逆の意味で用いられた。厭世的思想の裏返しとして「享楽的に生きるべき」と、憂き世から浮き世へと、逆の意味で使われるようになったと考えられるのだ。
あらためて、浮世絵の元祖。
元祖には二説がある。
①岩佐又兵衛説
②菱川師宣説
岩佐又兵衛説なら、浮世絵のはじまりは17世紀前半になり、菱川師宣説ならば17世紀後半ということになる。
本文中でもあえて岩佐又兵衛の画にかかわる場面を登場させましたが、菱川師宣に大きな影響を与えた先達という印象は絶対にあったと思います。そのことから云えば、浮世絵の創始者は越前藩御用絵師「岩佐又兵衛」になるのかも知れません。
たぶん、菱川師宣にとっては、元祖だの、本家だの、そんなことは小さなことで、自分の思い描いた絵をのびのびと形と成して糧に出来る喜びこそが第一だったのではないでしょうか。それと、師宣にとって格好のパートナーとなる版元に恵まれたというのも、後世に絵画を残す重要な点だったと思います。
「大和絵師 菱川吉兵衛尉」
そう称したように、菱川師宣のめざした自己ブランドは「大和絵」だとされます。
版木の挿絵で「好色一代男」などを盛り立てた功績は勿論、一枚絵の肉筆画も完成させた。こののちの江戸の絵画は、師宣とは異なる流れで大きく才能が誕生し、世界の浮世絵としてのスタイルを現代に伝える。
天才・葛飾北斎はこれよりのちの世に活躍する。
連載作品では、現在、菱川師宣への描写を増す。