【多論頂戴】笹子峠に縛られ過ぎていない?
小山田信茂公顕彰会の講演ご案内が届いた。
松本憲和先生が講師をされる。
10月はなかなかに動きが取れず、このタイミングは困難だ。
さて。
松本先生の事前史料から、テーマが武田家滅亡と小山田家について、世にある史料や学者の見識を照らし、適合と不一致や矛盾を焙り出すものらしい。面白そうだが……たぶん、厳しい。
で。
笹子峠について触れられている。
このことについては、結果や二次三次の書き物のため、または江戸時代以降のインフラ整備のために、笹子峠が重要なルートと誰もが錯覚している。していませんか?このことに、ずっと疑問を抱いている。
以前、ここ⇗ にも記した。
歴史のことは郷土補正などもあり、正解は後世の誰にも決めることが出来ない。しかし疑うことは出来る。
ここで記したこと。
「笹子峠は幹線道路でもないし、武田の軍事機密である狼煙台があるので、だれ彼構わず来てもらっては困る場所」
道幅は人ひとり程度で手入れもされておらず、郡内とのルートとしてポピュラーに使用されていない。つまり、こんなとこに来るのは、軍事機密に触れてもOKな一部の選ばれた人間だけ、となる。そして、武田家の軍事機密である以上、峠は小山田のものではないのだと気付くことが大事。
江戸時代に五街道として整備されたから、これでも十分に拡幅されたと考えられるけど、元は両側からV字に挟まれた谷あいで、ゆえに見通しの適う立地だから狼煙台が設けられた。実際、甲府盆地からも大月からも、1クッション不要なくらい見える峠だ。
しかしメイン幹線である官道御坂道は河口湖方面にいくので、谷村や猿橋方面へショートカットしたいというのも人情。実際、国中と郡内をつなぐ道は笹子だけじゃないんだ。みんなそちらから、庶民だって往還していた。
このことを、武田家滅亡の一件は塗り潰すように消し去っている。
疑うことを後世の人は忘れている。
「だって、『甲陽軍鑑』に書いてあるじゃないか」
と。
ここから疑え。
江戸時代の軍学書として人に受けるよう綴られた書は、リアルタイムから数十年後に記したもの。これは、軍学書であり史書ではない。しかし誰も疑わない。学者先生が武田研究の物差にするのも、やはり『甲陽軍鑑』なのだ。
こんなことされたら、現代の「国道」「鉄道」「高速道路」が集中する主要幹線と同じ感覚で、誰もが笹子峠をみてしまうのだ。
武田勝頼滅亡の地は、田野。
天目山なんて山は、この場所にはございません。田野です。この田野から黒野田まで通じる道がある。勝頼はここから郡内を目指せる選択肢もあった。しかし、敵に追いつかれてゲームオーバーになったという考え方が成立すると思う。
まあ、そもそもが、なんで郡内なのという処が問題。上州へ行くという評定を卓袱台返しして、勝手に自滅。でも、勝頼にとって、岩殿城は新府城を失ってから唯一とよべる武田の城だといえるのだ。
おい、まて。
岩殿城は小山田の城だ。そういう方は多い。小山田信茂公顕彰会の殆どもそのことを前提としている。小山田の本拠は谷村であり、大月には本拠はないと考えるのが自然。後詰という声もあるが、いったいどれだけ離れているかを考えてから発言すべき。
岩殿城は信虎時代に対北条戦用に防備を固めた城である。
上の写真で分かる通り、相模川を攻め上った北条勢を威圧できる拠点城だ。そして武田が主として縄張りをした。次の代になれば岩殿城は武田から城代が派遣されて詰めている。ここまで見通した上で、小山田の城だと云い切れる根拠はない。
勝頼は小山田に助けを求めるのではなく、武田の持ち城をめざした。
そう考えるべきだろう。
小山田は笹子峠で鉄砲で追い払える訳がない。そこは武田領だから、理由がない。新府評定を無視して勝手に押しかけてくる、厄介な賓客と云うのが、小山田信茂の本音だろう。
写真でわかるはず。
単独峰で、いきなり籠城に指定された山城にどれだけの兵糧がある?籠城戦に対応できると思うのか?こういう算盤のできない勝頼は、郡内領にとっては疫病神に相違ない。
勇ましいことを口にする人は、岩殿城鉄壁論を口にする。
囲まれたら一溜りもないというのに。
でも、笹子峠ありきの武田家滅亡の論議は、ちょっと不毛じゃないか。
そう思うのは、ワシだけか。
その前提の丹念な調査を形とした「光と闇の跫(あしおと)」を一瞥していただけたら、NOT笹子にも一理あると認めてもらえる。そう思う。
歴史とは、大まかな河のように流れをつかんだら、事件の一つ一つを疑って斜めから覗くことで真実に気付く必要があるんだ。安っぽい正義論で当時の人々を断定することは、愚かなことと思う。
そして、この夢酔の言葉さえも疑うことが大事だ。
その根拠を信じて……。