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春から晩夏へ移ろい、ちょっと振り返る

作家として三田弾正を用いた連載をしたのは、平成15年のことだから、もう20年以上前のころになる。
マイナーだけど、惹かれる存在だった。連載を終えてから、慌ただしく様々な作品を手掛けることになったが、御縁あって、令和6年2月11日(祝・日)に青梅市で講演の依頼を頂き、つつがなく行なうことが出来た。20年ぶりに三田氏に向き合ってみると、そのときに見えていなかったことが、今更ながら発見できる。
あらためてゆかりの地も歩いてみたが、三田氏はかなり再評価されており綺麗に整備された場所もある。

三田氏と都びとが繋がっていることは、有名なこと。
連歌師・柴屋軒宗長。この人物が、三田氏の居城である勝沼へ赴いたのは、永正六年(1509)のこと。すっかり気に入って半年も逗留したことが、彼の旅日記『東路のつと』にも記されている。この一級文化人が気に入った存在という理由は、明瞭ではない。駿河今川家を通じて血縁の伊勢宗瑞の間者として入り込んだという見方も出来るのだが、それだけではなさそうだ。
三条西実隆は当時の内大臣になって、すぐに出家したという、一応の朝廷有力者。この者と柴屋軒宗長がつながっている。その伝手で三条西実隆は、三田弾正忠氏宗へ依頼をしたことがある。皇室領である上総国畔蒜庄(現・千葉県君津市久留里)が真里谷武田氏に横領されたので返還交渉を求めたと云うのだ。ちょっと地図を広げて欲しい。いまの東京の西外れにあたる青梅と、千葉県君津市久留里。夢酔自身、似たような距離感で行き来するけど、遠いです。戦国時代初頭、両者の位置関係からみれば、ちょっと接点が考えにくいのだが、どうやら両家は知己であったらしい。実際、三田氏宗と真里谷武田氏が知り合いだから交渉役を担う事になったような記述が、三条西実隆の『実隆公記』にある。返還交渉は無事に成立し、三田氏は仲介した柴屋軒宗長の面目を立て、依頼者である三条西実隆も大いに助かった。
このことだけが原因かは定かでないが、その後の三田氏と三条西実隆はパイプを有する。天文二年(1533)五月、氏宗の次代である三田政定が上洛の折には実隆のもとへ黄金一両を持参し訪問している。このことから、三田氏が武蔵国でもかなりの財力を有していると窺い知ることができよう。
都の人が、ジゴロ相手に深いお付き合いをするとは思えない。
交友の源泉は武力でも財力でもない、教養だと考えられる。実際、三条西実隆は有力公卿という血筋だけでなく、当代きっての知識人だ。和歌の精通し茶の道にも長け、『実隆本源氏物語系図』なども手掛けた学識人だった。このような人物が大名ではない地方豪族と交わるメリットは、文化人同士のつながり以外にはあり得ない。
先に記した連歌師・柴屋軒宗長の旅日記『東路のつと』には、半年もの逗留の間、関東のあちらこちらでの連歌会のことが記録されるが、三田弾正父子もこれに出席している様子が伺える。ただの逗留宿だけの価値観なら、こんなことはない。
文化における戦国の交友は、合戦の勝ち負けという結果論では語れない、深い沼のような領域である。このことから、三田氏については、今後の再評価が望める対象ではあるまいか。

いわゆる三田弾正三代。
氏宗~政定~綱秀を、祖父・父・子と考えがちである。このことには、連載時から疑念に思い、今なおそのときの疑惑は正しいと信じている。氏宗の時代、殊に柴屋軒宗長が勝沼城を訪れたときには嫡子として政定が存在している。綱秀の死は永禄六年(1563※永禄四年説もあり)で没年七四歳。逆算すると、柴屋軒宗長が勝沼城を訪れたとき二十歳。これは政定の弟が正しいが、系図から複数いる弟のなかに綱秀の名がない。
これは一時期、三田氏が北条に取り込まれたときに当主である政定を隠居させ、弟に北条氏綱の諱を与え〈綱秀〉と名乗らせたと考えるのが妥当だと思う。
ゆえに、そういう設定の小説を綴ったものである。
この作品は二月一一日講演会に併せて西多摩新聞社で、受注限定単行本にした。在庫があるので、まだ購入のチャンスがあります。

三田氏のことを結果的に断じることが出来るのが、北条氏照との間で行われた〈辛垣合戦〉である。
事実上、三田氏の支配領域はこの一戦で崩壊し、杣保は北条領としての支配下になる。この状態は豊臣秀吉による小田原征伐まで続き、以後は徳川家康支配となる。三田氏の直系は形式的には辛垣合戦後に公式から消えたと考えられる。
無論、その後胤を名乗る方もおり、その部分も検証されることが、一観衆に身を置いた己の、今後の楽しみである。

あらためまして、あとがきの笹目いく子先生の影響力は大きい。
神棚をまつりたい心地である。


この話題は「歴史研究」寄稿の一部であるが、採用されていないので、ここで拾い上げた。戎光祥社に変わってからは年に一度の掲載があるかないかになってしまったので、いよいよ未掲載文が溜まる一方。
勿体ないから、小出しでnoteに使おう。
暫くはネタに困らないな。
「歴史研究」は、もう別のものになってしまったから。