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鬼子母神には、角がない
お江戸にふたつの有名な鬼子母神。
おそれ入谷の鬼子母神ではなく、雑司が谷にスポットをあてよう。
鬼子母神のご尊像は室町時代の永禄四年(1561)5月16日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣・山村丹右衛門が清土の地の辺りより掘りだし、星の井あたりでお像を清め、東陽坊(現・法明寺)という寺に納めたものです。
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その霊験顕著なことを知った東陽坊の僧侶がひそかにご尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。
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鬼子母神信仰は平安朝の昔から一般的なものでした。
その昔、鬼子母神はインドで訶梨帝母とよばれ多くの子供を産みました。
しかし暴虐この上ない性質で、近隣の幼児をとって食べることで人々から恐れ憎まれました。お釈迦様は訶梨帝母の末の子を隠し、過ちを質したそうです。訶梨帝母の嘆き悲しむ様にお釈迦様は、
「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」
と戒めました。
そこで訶梨帝母ははじめて過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後は安産・子育の神となることを誓いました。そうして人々に尊崇されるようになったとされています。
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ご覧あれ。
雑司が谷の鬼子母神像は鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけて吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしており、角のない鬼の字を用いられているのです。
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雑司が谷の鬼子母神は、寛文年(1664年)徳川四代将軍家綱の代に加賀藩主・前田利常の息女で広島藩主・浅野光晟に嫁した自昌院殿英心日妙大姉の寄進により建立されたお堂。その後に拡張されて、現在に至ります。
平成二八年七、国指定重要文化財になりました。
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散策の御供に・・・
喪中の夢酔は穢れの身なので神社境内には足を踏み入れられませんが、お寺なら勘弁ということで。