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満洲 南信州新聞連載作品

先にも触れましたが、現在は満映をテーマとしたオムニバス作品を描いている。そして、大きく存在感を発揮する人物。

映画「ラストエンペラー」で教授が演じたこの人
甘粕正彦。

甘粕正彦。

大正12年9月1日に起きた関東大震災の混乱時に、アナキストの大杉栄・伊藤野枝とその甥・橘宗一(6歳)の3名を憲兵隊本部に連行し、最終的に殺害、同本部裏の古井戸に遺体を遺棄した。
甘粕事件である。
事件では憲兵隊や陸軍の法的責任は全く問われることなく、部下らも甘粕の命令に従っただけで軍法会議では無罪とされ、すべて甘粕個人の単独責任として処理。
同年12月8日禁錮10年の判決を受ける。
千葉刑務所に服役中、皇太子裕仁親王御成婚に伴う恩赦があり、刑期は7年半に減刑。さらに謹直な獄中生活が評価され大正15年(1926)仮出獄、予備役となる。甘粕はフランスへと渡った。

昭和5年(1930)、フランスから帰国した甘粕は満洲に渡り、南満洲鉄道東亜経済調査局奉天主任となる。
昭和14年(1939)、満洲国国務院総務庁弘報処長武藤富男と総務庁次長岸信介の尽力で満洲映画協会の理事長となる。甘粕は満洲映画の経営立て直しのために大量の従業員の解雇を行った。しかしクビきりではなく、その再就職先の確保まで世話をしたとされる。
紳士的に振る舞う物腰は、むしろ井の中の蛙のような小物感もなく、度量ある人物だったのだろう。
満映の経営再建とともに、日本人満人双方共に俳優・スタッフらの給料を大幅に引き上げた。さらに日本人と満人の待遇を同等にしたこと、女優を酒席に同伴させることを禁止するなど、現代のコンプライアンスを重視する様なスタンス。
社員を大切にしたことから、人種を問わず満映内での甘粕の評判は高かったという。

連載の物語は、架空の主人公・健太の目線で、ゼロスタートの映画人が玄人職人にもみくちゃにされながら成長する。その背景には、常にべったりと時代や世相の貼りつくと云った、いつもながらの夢酔手法。当然、脇役にこそ実物の人物が活躍する。

根岸寛一。
満洲国国務院総務庁弘報処長武藤富男が日本屈指の映画人・根岸寛一を満映理事にした。結核を患い1945年6月退社、甘粕は借金を退職金規程に照らし、かつ上乗せして相殺する厚情を示したという。戦後は東横映画制作人に名を連ねる。

マキノ光雄。
父が牧野省三。生まれついての映画人。満映の製作部長として言葉の通じず自然条件も風習も違う異国で苦労を重ねる。一方で李香蘭を満映入りさせた功績もある。嵐寿寿郎を接待漬けにもした愉快なエピソードに尽きない。
戦後、東映の推進力となる。
マキノの家は映画の家、光雄の甥が長門裕之・津川雅彦になる。

赤川孝一。
満洲国文教部社会教育課に籍を置く甘粕の側近。甘粕の服毒自殺の現場に立ち会ったひとり。作家・赤川次郎の父。

映画の世界は戦時中、鬱屈していた。
プロパガンダしか撮影できぬ日本と異なり、幾何かの娯楽作品が満洲では撮影できた。根岸や牧野を慕って渡満する活動屋は多かった。活気と熱意に溢れた撮影現場には、ひとつ釜の飯で食らいひとつ屋根の下で女を抱けば、国籍も門閥もない連帯感が生まれたことだろう。

その作品の足跡は、現存に限りがある。