見出し画像

甲州軍団の伊達者

一条右衛門太夫信龍。武田信玄の弟であるが、その功績をピックアップするものは存外少ない。

武田信玄家臣団の御親類衆の中では典厩・逍遥軒・勝頼に次ぐ4番目に記されている。武田信繁や勝頼は騎馬は200騎とされるので、御親類衆でも最大規模の兵を率いていた人物と考えてよい。
山縣昌景をして「伊達者」と呼ばれた人物。
政宗の前の時代だから、伊達者という意味合いもどことなく違うのだろうが、やはりバサラや傾奇者なきらいもあったのだろう。戦さ働き以外で彼を評する逸話は少ない。


上野城。
歌舞伎文化公園にその名残を残す。市川三郷町の地名の通り、團十郎家発祥の地とも云われるが、ここが一条右衛門太夫信龍の最期の地とされる。
よくモノの本で、武田家滅亡に殉じたのは高遠城の仁科盛信だけで、あとの御親類衆は見捨てて逃亡したとある。一条信龍のことをスルーしているのだが、彼もまた、この地に留まり河内口より攻め上る徳川勢と戦って討ち死にしているのだ。


敵側の記録には、こうある。

「三河後風土記」
二月二〇日の田中城攻めで一条信龍は武田勝頼の身の上心許なしとて甲州へ撤退する。
三月三日、躑躅ヶ崎城へ着いた勝頼一行。大方は破却され休息所もないので一条信龍が屋敷でもてなした。
「信長公記」
徳川家康は穴山梅雪を案内役にして富士川沿いに甲斐の国へと乱入。文殊堂の麓、市川へ進撃した。
三月七日、織田信忠は甲府躑躅ヶ崎へ入り一条屋敷を本陣とした。武田の一門・親族・重臣の捜索を命じ一条信龍他を捕えて成敗した。

勝てば官軍の記録が勝り、その他の逃げた者と同格に扱われておりますが、徳川と一戦に及び勝頼のための時間稼ぎをした。仁科盛信と同じ、戦った御親類衆です。

伊達者にして花麗を好む性格なり

『甲陽軍鑑』は一条信龍をこう評する。

「光と闇の跫(あしおと)」はこういう隠れた人材にこそスポットを当てているのです。

こちらよりお進み下さい。
光と闇の跫(あしおと)|一般小説作品詳細|NOVEL DAYS (daysneo.com)