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季節はずれの塩船観音

大仰なことではなく、いつだって時期ではございますが、なにせツツジの頃になりますと、大勢の人で落ち着かないし駐車場も有料になる。オフシーズンという申し様は無礼千万なれど、落ち着いて拝観するならツツジシーズンを除かれるのが、よろしいかと存じます。

正しくは 

真言宗醍醐派別格本山大悲山塩船観音寺

と、申す。

大化年間(645年 - 650年)に若狭国の八百比丘尼がこの地に来りて、紫金の千手観音像を安置したことに始まるという。伝説による、お話しだ。
「塩船」についても。
天平年間(729年 - 749年)に有名な行基がこの地を訪れた際、周囲が小丘に囲まれて、まるで船の形に似ているところから
「仏が衆生を救おうとする大きな願いの船である弘誓の舟」
になぞらえてつけた名称という。これも、伝説。
日本全国、たいがい「聖徳太子」「弘法大師」「行基」のトップ3が伝説の源泉になるのは、もう詮索という野暮を放棄させる遺徳といえよう。

室町時代末の建立とされる茅葺かやぶきの仁王門(国重文)。
その門内の左右にあるのは都有形文化財の金剛力士像なり。 

像高は、阿形像273・4cm、吽形像277・6cmで、ヒノキ材寄木造り。
向かって右側にあるのが「阿形」像。
左側にあるのが「吽形」像です。

右!
左!

天文二年(1533)卯月六日と記された仁王修理木札が現存している。
多摩川流域を支配した杣保の豪族・三田弾正忠政定が大旦那となり、鎌倉仏師円慶が修理をしたというのだ。

本堂に安置される千手観音立像・功徳天像。
岩形の台座の背面には永正九年(1512)、に三田弾正忠氏宗が鎌倉仏師の下野弘円らに修理を依頼したことが墨書されている。三田弾正忠氏宗は三田弾正忠政定の父と思われる。二代で大旦那となり塩船観音の仏像を修繕するくらい、当時は隆盛を誇る仏閣だった。

東路のつと

  は、連歌師・柴屋軒宗長の紀行文。

柴屋軒宗長は永正年(1509年)八月、勝沼城の三田弾正忠氏宗を訪れ、
半年ほどこの地に逗留したとされる。               
記述に登場する「杉本坊」は塩船観音寺の僧坊のひとつとされる。  

青梅にある「大門」という地名。いったい何の門だったかというと、塩船観音だったそうです。かなり離れているように見えますが、それくらい規模の大きな仏閣だったと考えられます。

オフシーズンだからこそ、三田弾正の息吹を感じられるような気がします。

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