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海のトリトンという大作について

原作漫画は、手塚治虫によって『サンケイ新聞』(現・『産経新聞』)に1969年9月1日から1971年12月31日まで新聞漫画『青いトリトン』と題して連載された。

TVアニメとは、実は世界観が違う。
海の民トリトン族の生き残りである少年トリトンと人魚の少女ピピが、海の覇権をにぎろうとするポセイドン族と戦うというストーリーだが
「テレビまんがのほうは、ぼくがつくったものではありません」
と手塚は明言している。実際、原作とはかなり異なる。
ファン層というか、好き嫌いの差異は大きいといわれる70年代を代表する作品のひとつ。

元々手塚プロダクションでアニメ化する予定で、トリトンはパイロット版が制作された。
その頃は虫プロダクションの経営悪化で、表に見えない部分で混乱していた時期。このとき手塚のマネージャーだった西崎義展が、アニメ化の権利を取得してテレビ局への売り込みに成功した。のちに宇宙戦艦ヤマトで一世風靡した西崎の、テレビアニメの初プロデュースがこの「海のトリトン」だった。
この作品の監督に据えられたのは、当時虫プロにいた富野喜幸(現・富野由悠季)。のちに機動戦士ガンダムで知らぬ者なき人になる富野の初監督作品も、この「海のトリトン」だった。
制作の中心となったスタジオは朝日フィルムで、このとき虫プロ系のスタッフが使えなかった。そのため新しいものに挑むという基本方針の下、あえて手塚治虫調ではないキャラクター設定で臨んだ。なぜならば原作漫画を読んだ富野は
「つまらなかった」
という考えを持っていた。そのためキャラクターの設定のみを生かし、ストーリーについても大幅に一新した。

本作は『宇宙戦艦ヤマト』以前に高年齢層のファンが誕生し、世間的にも人気を博した作品。ある意味で、宇宙戦艦ヤマト・機動戦士ガンダムの生みの親たちが揃い、のちに世を沸かすアニメブームの先駆けとなった作品でもあった。
似たような現象は「あしたのジョー」くらいか。力石徹の告別式に全国からファンが集まった実例もある。
「海のトリトン」は日本で初めて、ファン主体のテレビアニメのファンクラブが作られたとされる。とりわけ女性ファンの人気が高かった。少なくとも手塚漫画のファンでないことの注目度は大きい。純粋にアニメの練度に魅せられた人は多かったのだ。

富野はこの作品を、単なる勧善懲悪的な迫る敵を退治していく予定調和な話でなく
「原作を全部潰す!」
という強い方向性を抱くようになる。どことなく高年齢向けなこの作品の質に子供たちがついていけなかったのか、その後、テレビ放送の視聴率も芳しくないことから局が打ち切りを決定する。
尺のことは大きな問題ではなく、富野のなかではクライマックスの構想が固まっていたという。大学時代から抱く哲学意識も影響していたためか、ラストで善と悪が逆転するという最終回を富野は考案。しかし反発は想像していたので、最後までスタッフの誰にも口にしなかったという。
富野発案のアニメ版最終回は、予想通り、脚本家たちから猛反発を受け、大喧嘩へと発展した。
「これ以降アニメの世界で演出の仕事をさせて貰えないだろう」
と富野は感じつつも
「テレビアニメ如きで大人の事情に縛られたら、仕事以下」
と腹を括った富野は、脚本家たちの合意が得られないまま自分の勝手を押し通したという。
70年代特有の仕事バカという姿勢は、創作に携わる自分にとっては眩しい信念で見習うべき信念だ。

主題歌すら、人気フォークグループかぐや姫に任せた、のほほ~んとした手塚臭いものから、希望と勢いを感じるものに変更された。この歌は、夢酔、好きヨ。スマホに入れて、たまにダイソーイヤホンで聴いている。


アニメと原作のラストの違い

原作

不死身のポセイドンを宇宙へ追放させるため、トリトンはポセイドンと共に宇宙へ去ってしまう。その後、ピピ子との間に生まれた7つ子から息子のブルーがトリトンの後を継ぎ、甲ら島となったガノモスに帰るシーンでラストとなる。ポセイドンの要塞は日本の遥か南方とされ、超古代のムー大陸との関係が語られている。

アニメ

トリトンはポセイドン像から聞こえてくる声で像を操っている者の存在に気づき、それを追ってアトランティス大陸の遺跡の中に突入する。しかしそこは小さい子供と母親など、普通に生活していたであろうポセイドン族の亡骸が累々と転がる死の世界であった。トリトンが声の出所を探っていくとポセイドン族の長老の亡骸に辿り着く。その亡骸と共にあった法螺貝はオリハルコンの短剣の光で回答をもたらすように作られており、法螺貝に託された長老の声が戦いの影に秘められた謎を明らかにしていく。
ポセイドン族の消滅という結果により報復の連鎖からようやく解き放たれたトリトンだったが、戦いの真の元凶はトリトン族であり、自分達の祖先であるアトランティス人が同族の一部を生け贄にして踏みにじった罪を心に抱きながら、一族の幼年期の姿である人魚の姿をした唯一の同族であるピピや、味方となって戦ってくれたルカーらイルカらと共にいずこかへと旅立つのだった。

個人的には甘ぬるい手塚版よりも、皆殺しの富野の原点である、シビアな大人の事情も滲むような善悪転換のアニメ版が好きでした。

みんなは、どっちかな?