忠臣復権
堀江能登守頼忠を広く顕彰してくれるのは、房総ではなく鳥取県倉吉市である。毎年9月、里見家を偲ぶ「倉吉里見時代行列」が催されるが、八犬士に加え唯一の正史家臣として堀江頼忠が列している。千葉県館山市の「南総里見まつり」そのものさえも無くなったというのに、どうしたことか。
それほどの忠義の士だったと、先ずは申し述べておく。
堀江頼忠が才を発揮したのは、里見家最期の当主・忠義の時代とされる。
里見義康が当主となったのは15歳。堀江頼忠は年上であったが、非凡な当主に仕えて才を磨いた。里見家にとっての僥倖は、関ヶ原で徳川に与したことで加増されたことである。このとき鹿島領支配の奉行人として、堀江頼忠は鹿島神宮をはじめとする寺社の寄進等を扱った。他国領を任される以上、資料にはない部分で内政センスが評価されたことくらいは察しができよう。普請を設けて鹿島領民の生活を潤わせる手法がこのとき執られた。館山城の濠普請、この堀は〈鹿島堀〉と呼ばれた。
こういうことは当主が気付くことではなく、おおよそ家中からの献策に基づく。鹿島領支配奉行として、堀江頼忠が献策したのだろうと推測できる。ちなみに〈鹿島堀〉は、里見家が安房を追われる際に、破却された城の建材捨て場に用いられて、完全に埋められてしまった。一部その片鱗をみつけられるものの、現在では全容を知る術はない。現在の城用駐車場あたりが鹿島堀だったことを、案内板が伝えるのみである。
安房での堀江頼忠知行地は1352石。1石は、おおよそ1年間に1人が食べるお米の量(江戸時代換算)になる。どれだけの領民配下を養えるか、単純計算で見積もっても、堀江頼忠はかなりの扶持を得ていたと考えてよい。このことから、この知行の時点で家老職になっていたと考えられる。
堀江頼忠は山下郡宮城村に10石で菩提寺を寄進した。このお寺は、現在、宮城山頼忠寺と呼ばれ現存している。2017年、開創450年法要の催しを行なっており、夢酔も恥ずかしながら記念講演をさせていただいた。堀江頼忠木像などもあり、古くて味のある本堂であったと記憶する。こちらは令和元年房総半島台風(2019)の被災により、本堂が激しい損傷を被り取壊しされてしまった。
胸が痛い。
堀江頼忠が後世に名を刻む活躍をしたのは、皮肉にも里見家滅亡へつながる過程の途であった。里見家最後の当主・忠義は、大久保長安事件の余波で安房より国替する憂き目となった。
当初は鹿島へ移転することになっていたが、どういうわけか、無縁の伯耆国倉吉へと飛ばされた。家中が混乱したことは間違いない。このとき里見忠義は江戸に留め置かれており、国替の采配は家老の責務だった。その責任者だったのが、大家老職にあった堀江頼忠である。
不平不満の士卒を抑え、幕府の沙汰に従うよう家中をまとめる難しさ。これを一己の家族や会社に置き換えてみれば、ああ、実に大仕事だなという察しは出来まいか。こういう力量を持つ家老じゃなければ、この時点で、里見家はお取り潰しされていたに違いない。
倉吉に移されたのちも、約束の知行ではない不服を堪えて、家中をまとめる苦労を一身に背負った。一身に背負いすぎたためだろうか、元和三年(1617)九月一二日、堀江能登守頼忠は倉吉で没した。里見忠義が病死し大名としての滅亡をしたのは、およそ五年後の元和八年(1622)六月一九日。
里見家のためだけに生涯を尽くした、まさに忠臣。
それが、堀江能登守頼忠だった。
のちの『南総里見八犬伝』のおかげで、フィクションの八犬士に忠義の代名詞を奪い取られた格好だが、もとは堀江頼忠こそ史実の忠臣。
安房では物的な足跡が口では明確にされておらず。そのためか、堀江頼忠に関する知見を広めるどころか、顧みることも少ない。
本来ならばフィクション八犬士を大々的に扱うよりも、史実の武将を南総里見まつりで取り上げなければいけないのだ。その先頭にあるべき一人が、堀江頼忠である。その改善もされぬまま、年に一度の甲冑行列は、新型コロナウィルス蔓延で中止となり、結果、2022年からは通年型イベントとして終了された格好。
その点、倉吉は優しい。
倉吉里見時代行列の起点である大岳院には、里見忠義主従の墓所がある。里見忠義の墓石かと思う立派な供養塔。実はこちらが堀江頼忠のもの。忠義が生きているときに感謝を込めて建てたのだ。忠義の供養塔はそれより小さいから、勘違いしてしまう。倉吉里見時代行列を御覧の際は、時代行列で堀江頼忠の遺徳を偲んで欲しい。
倉吉せきがね里見まつり公式サイト
この文をそっくり朗読する、「房総里見会動画企画」
堀江能登守頼忠を大いに顕彰すべき時代を迎えていると、皆が思ってもいいんじゃない?特に安房館山の自治体や観光協会さん?
2024年。里見忠義の四代前の当主として関東戦国史に名を刻む「里見義堯」没後450年の節目を迎える。
この話題は「歴史研究」寄稿の一部であるが、採用されていないので、ここで拾い上げた。戎光祥社に変わってからは年に一度の掲載があるかないかになってしまったので、いよいよ未掲載文が溜まる一方。
勿体ないから、小出しでnoteに使おう。
暫くはネタに困らないな。
「歴史研究」は、もう別のものになってしまったから。