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石井三朶花ってどんなひと

コトバンク曰く
石井三朶花(さんだか)とは?
1649-1724 江戸時代前期-中期の儒者。
慶安2年9月10日生まれ。 延宝2年常陸水戸藩主徳川光圀につかえる。 江戸藩邸で右筆をつとめ,のち彰考館編纂員となり,「大日本史」の編修にあたる。
漢詩にすぐれた。享保9年9月25日死去。76歳。安房出身。名は収。通称は弥五兵衛。姓は「いわい」ともよむ。著作に「破日蓮編」「三朶花詩文集」。

Wikipediaに出てくるような人ではないんです。
 
深く記すものは少ない。
安房の何処という点も、昭和60年12月号広報たてやまに
「豊房地区の山荻に生まれ、別命を弥五兵衛という、里見義堯の子孫にあたります。」
とある程度。
また、館山市の福生寺に残される宝篋印塔は、石井三朶花の祖父母の墓である。祖父の名は、石井弥五右衛門盛次という。里見家転封ののちに幕府代官から手代頭に採用され、里見氏転封後の安房国の民政処理にあたった人物とされる。
それから……。
大黒山展望台山頂の木製で擦れた看板には
「徳川光圀(水戸黄門)は、1674年、鎌倉英勝寺墓参の途中勝山にやってきました。当時編纂されていた『大日本史』の資料収集や史跡の見学を兼ね、浪人石井三朶花を招き『大日本史』編纂にあたらせるためでもあります。三朶花の家は大黒山のふもとにあり、仁浜に住んでいました。」
とある。

石井三朶花は、安房先賢偉人のひとりに挙げられる人物なのです。

水戸光圀が手掛けた「大日本史」。その編纂のために設けたのが、水戸の彰考館。これを支えた史臣が、森巌塾と石井三朶花の二人なのです。

でも、石井弥五兵衛時代の事跡は、ハッキリと残されているわけではないのです。
もう、お分かりですね。
房州日日新聞に登場していた、醍醐新兵衛に居候していた気のいい短慮な鼻息の浪人・石井弥五兵衛。こののち、誰になっていくのか……!

夢酔マジックで、史実に見えない部分を脚色し、機が熟したら史実とマッチングさせていく。勝山に、なんで水戸黄門が来るんだよと感じた方々も、ここで、あっと思えば「してやったり」なのです。
石井弥五兵衛が本当の歴史舞台に躍り出るための布石が、この場面。
儒学者とあるけど、水戸に行ってからだってたっぷり勉強できるし、やる気と根気と度胸があれば、剣客から転身することだってできる。最初から頭でっかちに設定しなかったのは、誰でも「何者にだってなれる」というエールであり、転職で悩む人の代弁者にしたかったから。
最後の一文は、蛇足だからやめようとも思った。
だけどメジャーな人じゃないから、やはり誘導するしかない。のちの有名人だったら、後々の講演で
「あれって、石井三朶花になるんですよね?」
という質疑があって、にんまりなのですが、絶対スルーされるだろうと。余計な一文をあえて設けました。

石井三朶花が彰考館にいた同じころ、佐々介三郎宗淳と安積覚兵衛澹泊も出仕していたとされます。助さん格さんのモデルとなった人ですね。

「真潮の河」本編から自然退場していく石井弥五兵衛ですが、こののち、ひょんなところでゲスト出演の予定ですので、読者は大いにお楽しみに~♪

2024年10月6日号にて、
連載300回を迎えた「真潮の河」。
佳境に向け、潮が満ちて参ります。