八戸駅が混雑している 周りは真面目そうな風貌の若者たち そうか、受験なのか... ホームに行く 私が乗る席は7号車の3番...こっちだな 自分の席を確認しようと顔をあげる 私をじっと見る中年男性 あ?見たことある、、💡 そか!保護者だ!『どうも〜』ぺこり。 保護者でもあり教育者よお父様。 その人の後ろから、頭一つ分飛び出して、私を見てにっこり😊 『ん?お父さんそっくり!!あ◯と君!!おっきくなったね、びっくり!!』 『大学受験なんです。』 そか。時代はもう進んでいる。 私
臨時講師3年目 9月 大学現役のときと合わせて4回目の採用試験で初めて2時試験を通った25歳 私は和太鼓部が設立されたI小学校で四年生を担任していた 私は 夢の夢であった《小学校の先生》の採用試験に合格したのだ 勿論両親も喜んでいた 妹も喜んでいた 家族がなによりも喜んでいた 私はI小学校で四年生担任と和太鼓部の顧問でバリバリの情熱で学校に通っていた ある日、校長と話す機会があった 私が合格の喜びを報告に校長室に出向いた時だったろう 『繭子先生、よかったですねぇ。
私は足軽やかに面接の教室へ歩いた🚶♀️ 臨時講師3年目7月 一次試験(筆記、水泳、ピアノ、マット運動、集団討論)を初めて突破した年 私は25歳になっていた 親の反対を押し切って教師への道 落ちる落ちるの連続で 落ちて3年が経った頃は 私は親の圧力を半端なく感じていた (これがもう尋常じゃない) 私は歩いた 本当に喜びに満ち溢れながら廊下をスタスタと 今でも覚えている そして着いた 試験官が待つ教室のドアの前 その年は、ゆとり教育を打ち出していたため、一人ひとりに
《ゆとり教育》 誰しもが聞いたことがあるだろう そして懐かしくもある言葉である 私は昭和46年生まれであるが、子どもの頃は、勿論土曜日4時間授業は毎週あり、その後も更に遅くまで部活動があった 居残りもあった 土曜日とは弁当ありのイメージだ 私が教員採用試験を受け出したのは平成5年(大学4年)から 学校週5日制という慣れない言葉が突如として降ってきたのだ 《子どもの個性を重視した教育》 土曜日学校が段階的に休みになってきたことを経験している人も多いであろう 子どものた
赴任した小学校で最初4年生を受け持った その時は、学年主任も私も、初めてその学年の担任になるということだった 主任の配慮か公平の見せしめか、どちらでも良いよ、好きな方選んで!というふうに、クラス名簿の入った茶封筒を渡されたのだ(詳しくは①に投稿済み) そして、 《熱血先生》!と上の学年の子どもたちに言われるほど、熱血時代を送る 1年の月日はあっという間に過ぎ 五学年に上がる前の三月がくる 天下分け目のクラス編成がまた行われる三月である 私は迷っていた 持ち上がりを希望
晴れて自分の想いが叶って新米教師になった 私は子ども自体がスキかと聞かれたら、《特に》というわけでもない 子どもがめちゃスキ なのではなく ☆子どもがやる気を引き起こさせるのがスキ ☆子どもが目を輝かせる瞬間を見届けるのがスキ ☆子どもが『繭子先生!』って呼んでくれるのがスキ という感じが違いかもしれない 私との出会いで 関わりで その子どもがなんらかの違いを見出せたら、本当に嬉しくなる 一般的に言うと 成長を感じた時がたまらなく嬉しい みたいな? その成長とは
空にいる私が 地上で倒れてうずくまっている私に叫んだ! 『もう大丈夫! これから絶対うまくいく!!』 痛い 痛いってもんじゃない 待てよ?痛いってことは 私は生きているんだよね? 空から見ている私が、明るい声で叫ぶのだ これからうまくいくって? そうか私は堕ちたんだ しかもめっちゃ生きている 痛すぎやろ これ まもなく、イントラと仲間が駆けてくる 『大丈夫か』 そして救急隊も駆けつける 私はとにかく痛すぎて目を瞑っていたのだろう 声だけが聞こえるのだ 『鼻か
👱♂️『師匠 家に引きこもってらだめですよ、外に出ましょ』 TikTok寺子屋ライブ配信で、そんなコメントも目につくようになった 当時はフォロワー様から自由にメッセージも来る時だった(今は相互フォローしていないとメッセージは受け取れない?) 👱♂️『俺は八戸市在住です。師匠、外に出てください。空には空、海には海、陸には陸の楽しみ方があります。俺は、それらを制覇しました。師匠にも、楽しんでもらいたいです。外に出てください。』 リスナー様Y氏のその熱意が、家に引きこも
私は無職7カ月の間毎日継続していたものがある それはTikTokの投稿 そして ライブ配信 続けることで沢山沢山違いを生み出していった リスナーさん同士も結束力が深まり、 昭和のよき時代の学級のようになっていった 時には、新しいリスナーさんが育児や家族や職場の人間関係など 悩みを打ち明けていく方々(転校生)も増えてきた 一人のお悩みをリスナーさん同士が声を掛け合って想いを分かち合っていった 私も次第に自分のことをストレートに話していけるライブとなっていく 私がいつ
👱♂️『TikTokやればいいよ。あなたはTikTok向き。フォロワー10万人でYouTubeに移行すればいいよ。 ただし、 アンチも必ず出てくる。 アンチは肥やしになる。 アンチを味方につけて。』 無職で東京に行く。 何かを探しに。 東大付近に会社を持つH社長のお言葉である。 東京大学の文字が見えるだろうか。 雲の上の存在だが 東大のエリアで写真を撮ることはできた!笑 当時は アンチというものを知る由もない アンチという言葉もその時初めて知ったのだから
現在noteのフォロワーは7名 これは少ないですか? 私にとって7名のフォロワー様は宝物 本当に感謝申し上げます🥲 TikTokの投稿の日、教え子がいたのともう1人で必然的に2人 次に気付いた時は、《7人》になっていた。 私は、少なっっ と思い込み、TikTokを勧めた例のH社長に連絡 👩『フォロワー今7人です😭』 そうか、それは何か対策をとか甘いアドバイスをいただけるかと思いの報告 👱♂️『その7人を大切にしてください。』 えーーーー、戦略的なアドバイスない
2019.11月私は突然 無職となる このままでは《井の中の蛙》。 世の中は、流行性の病気が流行り、田舎者が都心に出かけるなど滅相もない でも私は 世の中に逆流した動きをするのである 50歳の節目まであと半年 半年間人脈を広げるために おら東京さ行ぐだ!!! 人の影など微塵もない新幹線 車両には私ひとりだけ あてもなく東京へ向かうのである 〜名刺を持って〜 まずは 教育関係のお仕事をしている社長に会いに……………… その会社は 《東大》付近にあるしっかり
👩『おら小学校の先生になる!』 自らの体験で初めて夢を持つ。 高校3年生の夏。 下宿していた私は、実家に帰り父に言った。 👱♂️『バカか!俺は学校の先生なんか、大嫌いだ。人に話は教えるけども、人から話を聞かない。警察、医者、先生(口悪くてすみません🙏) 高齢社会になり、お年寄りは増えるのに、子どもは減る一方! 第一、お前みたいな ボンクラが 学校の先生になれるわけがない!! 黙って看護師になればいいんだ! 大学に入れるお金はない!! …………………撃
👦『繭のお姉ちゃん、 一緒にジョギングしよう!』 ぽっちゃりした小学2年生と運動神経抜群の妹1年生2人と その日から町内をジョギングをすることになった 👦『もうダメ、足が痛い』 👩『自分から言っといてなによ! なら、今日はここまでね!』 そのやりとりを繰り返しながら、一週間後、町内をついに完走🏃♀️ 👦『やったー、ぼくもやればできる!』 👩『へえ、嬉しいんだ。 私は、それ以上に嬉しいけど!』 この感情を持ったのを確かに覚えている。 しかし
『辞めた理由は想像つくが 繭子さんみたいな人が なぜ先生に?? そっちが聞きたいわw』 ズコッw あんれ?そっち?? 辞めた理由 いつ話そうかと フォロワー10万人で! なぁんて と意気揚々としていたところ ちょっとずっこけ🤏 辞めた理由のきっかけなんて 今なら滑稽でしかないw (でもいつかは話す) 私は農家に生まれ 休みの日はもっぱら畑 なりたいものも分からず とりあえず父からは 『高齢社会来るから 看護師がいいんだ!!』 私は、そうか私は 看
Facebookのお友達に勧められたこのアプリ。 これに私を綴っていくのだ。 今までのSNSは 表面の一部。 もはや綺麗事。 今だよ あるものは今だけなんだよ なんて それも分かるよ でもね 私の 過去も曝け出す これは 多分 ヌード写真の 快感と同じではないかな 辿り着くところは まっぱな 自分で より心地よくいられること 私は まっぱの自分になるのだ。 生まれたての。 どうぞ宜しく。 応援してくれたら 嬉しい