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《後日談》嵯峨野小倉山荘色紙和歌異聞

《後日談》
「定家殿、定家殿!」
濡れ縁のほうから騒がしい呼び声がする。蓮生のだみ声だった。
「陽はもうとうに上っておりますぞ。お起きなされ」
……朝はまだ遠い。式子、も一度……。
部屋の入り口に蓮生が立つ。
「おお、これはひどい散らかりようじゃ」
「……式子、式子……」
「なんじゃと? 誰と言うのじゃ……。定家殿、目を覚ましなされ」
蓮生はずかずかと部屋の中に踏み入ってきた。定家はうっすらと眼を開ける。そして、式子の居た辺りを手でまさぐった。
「居ない……。居ない! 式子が!」
はっとして目を覚ます。
「誰もはなから居られはせぬ。定家殿は寝ぼけておられる。さては夢の続きを見ておられるのか」
蓮生がどっかと定家の傍に座った。
「昨夜、確かに、ここに……」
「誰かは知らぬが、それこそが夢。夢の摩訶不思議。想う人に会いたい一心がそうさせたのじゃ。……して、その懸想のお相手は誰じゃ?」
蓮生がにやにやと聞く。
「夢であったか……」
定家はそこら中に散らかった和歌を記した色紙を茫然と眺めた。
「あ、よいわ。ぼちぼちと懸想のお相手は聞くとして、先ずは渡月の川遊びに参ろう。夏の陽を避けて涼むにはもってこいの場所」
定家は蓮生に急き立てられて立ち上がる。
「夢? まことに夢で逢ったのか……」
唇にも身体にも式子の香り、柔らかな肌の感触がいまだに残っているというのに……。
定家は夏の日差しに真白く輝く庭とゆるやかに揺蕩う池の水面を眺めた。あまりの眩しさに、くらりとめまいを覚える。
その刹那、女人の容をした陽炎のようなものが庭の砂を蹴り、池の蒼い水の上に舞う姿を見たような気がした。



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