くりかえす家族の歴史 #エッセイ
ふとした時に思い出す、頭の隅にこびりついた忘れられない記憶がある。
高一の時のホームステイ先で聞いた、家族の歴史に関する話はその一つだ。
同級生がホームステイをしている家庭でのホームパーティーの帰りだった。
その家は湖のほとりにあって、庭から湖に向かって桟橋が伸びており、
大きなクルーザーが停泊していた。
いかにも「アメリカ!」というふうで、美しいブロンドの髪の家族だった。
「あの家族は本当にえらい。家族の歴史の呪いに打ち勝ったのよ」
家に帰る途中、高速道路を運転しながら目線を前に送ったままホストマザーはそうつぶやいた。(私のホストファミリーはアジア系だった)
アメリカでは離婚率が世界でも指折りに高い。
なかでも、両親が離婚している場合には、子供が将来離婚する確率が高くなるそうだ。(ホームパーティを開いてくれた家族の両親は、どちらも親の離婚歴があった)
真偽はわからないが、私のホストマザーはそれを「家族の呪い」と呼んでいた。
呪いに打ち勝って幸せな家庭を築いているからすごいと。
繰り返される家族の歴史から抜け出したんだと。
パーティーで遊び疲れた私は真剣に聞くでもなく、なんとなく聞き流していた。
その車から見た風景を今でも思い出すことがある。
10年以上経った今でも。
なぜ家族の歴史はくりかえすのか。
個人にルーティンや癖があるように、家族にも集団としての「型」のようなものが形成されていくように思う。
食卓の雰囲気、リビングでの会話、休日の過ごし方。
くりかえされる生活の中で、子どもはだんだんとその型を覚えていく。
子どもの頃、友達の家に遊びにいくと、ひどく新鮮な気持ちになり、どこか落ち着かなかった。
無意識に感じるその違和感は家族の型による違いからくるものだと思う。
子どもが成長し、家族以外の誰かと生活する時。
唯一持ち合わせているその原型でもって生活をし(すり合わせはあれど)、
集団としての特性は決まっていく。
ごくたまに「愛することを知っている人」に出会うことがある。
信頼している相手には、ためらいもなく腹を見せることができる人。
惜しげもなく愛情を伝えることのできる人。
そういった人を見ると、そういった「型」で育てられてきたんだろうかと
邪推することがある。
成長する中で体に染みついた「型」にあらがって家族を形成すること。
それをするには「原型」以外の型をなるべく多く知っていくことからはじまるんだろうと、今はそう思う。