見出し画像

感染症が世界を変えた

コロナ感染症による社会不安も静まり、落ち着きを取り戻してきた今、歴史を振り返ってみたい。
疫病はこれまで、世界の宗教や思想に大きな影響を及ぼし、社会を根本的に変えてきたことがわかる。
 
【 アテネの疫病】
 
史上最古のエピデミック(地域的流行)は、西暦前5世紀のアテネで生じた。
宿命のライバルであるスパルタ軍に追い詰められ、アテネ市民は都市に閉じ込められた。
この人口過密で、衛生状態が極めて悪い中で、疫病が蔓延したのである。
 
人々は経験したことのない事態に震撼した。
隣人が次々と死んでいくのを、だれも止めることはできなかった。
アテネ市民の実に3分の1が死んだ。
 
火葬が間に合わず、遺体を焼いているその上から遺体を積み上げて焼くという地獄絵図が見られた。
死体をついばんだカラスまでも死んだ。
 
最高指導者のペリクレスも感染して死に、やがてスパルタ軍に対し屈辱的な全面降伏をした。
 
これはアテネ人たちに非常に深い心の傷を残した。
 
彼らはゼウスやアポロンといったオリンポス12神のギリシャの神々を信じなくなった。
いくら崇拝しても何も保護してくれない、神々などいないのだ、という考えが広まった。
 
後に、デモクリトスは世界は原子(アトム)でできていると唱えた。
物質をどんどん分解していくと、それ以上分解でいないアトムに至り、すべての物質はアトムからできているのだ、という発想は、宗教や神を否定する唯物論に発展した。
 
他にも、ソクラテス・プラトン・アリストテレスなどの哲学の巨人たちが登場し、従来の信仰を否定する、新しいものの考え方を示した。
 
有名なギリシャの哲学、そこから発展する自然科学は、アテネの疫病を一つの契機としていたのである。
 
 【ローマの衰退】
 
史上初のパンデミック(世界的大流行)は、ローマ帝国全盛期の2世紀後半に生じた。
 
パックス・ロマーナ(ローマの平和)を築き上げた五賢帝の最後の皇帝であるアルクス・アウレリウス・アントニウスは、最大のライバルである東方のパルチア王国への遠征を命じた。
 
ローマ軍は見事に勝利を収めたものの、その帰還兵たちが、未知の感染症をローマ帝国内に持ち帰り、瞬く間に広めてしまった。
 
それは天然痘だと思われるが、当時は正体不明で「アントニヌスの疫病」と呼ばれた。
 
人口6,000万人を数える帝国内で、実に350万から1,000万人が死亡したと言われている。
 
この急激な人口減少が、ドナウ川の向こうにいたゲルマン民族の侵入を招くようになり、結果としてローマ衰退の契機となった。
 
苦悩するアントニウス帝が、帝国の衰退を憂いつつ執筆したのが、「自省録」である。
 
ローマ帝国内での疫病の蔓延は、数世紀前のギリシャで起こったことと同じく、従来の神々に対する信仰を失わせることになった。
 
ユピテルをはじめとするローマの神々は何も助けにならなかった、神をいくら崇拝しても無駄ではないか、という考えが広まった。
 
このアナーキーで、無神論的な風潮が広まる中、生き生きと信仰を保つ人々の集団がいた。
クリスチャンである。
 
彼らは苦難を試練ととらえていたので、身近な人が死亡しても信仰を失うことがなかった。
そして死を恐れず、献身的に病人たちを看護し、病院を経営した。
 
その姿が、人々に深い感銘を与えた。これこそが本物の宗教だ、と思わせた。
結果、キリスト教はこの時期に爆発的に広まった。
 
これが、313年のミラノ勅令によって、キリスト教がローマで認められることにつながっていくのである。
 
 【アメリカ大陸において】
 
アントニウスの疫病が広まったことで、ヨーロッパ人たちは天然痘に対する免疫を持つようになっていた。
 
そして時が流れ、1492年にコロンブスが新大陸に到達すると、スペインやポルトガルをはじめとしたヨーロッパ人たちが、こぞって入植を始めるようになる。
 
しかしアメリカ大陸の先住民(インディアン・インディオ)は、天然痘に対する免疫を持っていなかった。
 
やがて当地で天然痘が広まると、先住民だけが症状が出て次々に死んでいく一方で、ヨーロッパ人たちにはほとんど影響が出なかった。
 
これを見て先住民たちは、とてもこの人たちにはかなわない、彼らの神々を受け入れよう、という考えになった。
 
それは単に免疫があるかないかの違いに過ぎなかったのだが、当時はそんな知識はなかった。
この災厄を終わらすため、先住民たちはすがる思いでキリスト教を受け入れていった。
 
現在、南北アメリカ大陸が、見事にキリスト教国ばかりとなっているのは、このような背景もあるのである。
 
 【天平エピデミック】
 
感染症の蔓延が大きな社会不安を引き起こし、宗教や思想に大きな変化をもたらした点では、日本も例外ではない。
 
飛鳥時代に仏教が日本に伝わった時、追いかけるようにして天然痘が蔓延した。
 
当初は、外来の宗教を持ち込んだので、日本古来の神々が怒り、災厄を生じさせたのだと考えられ、まだ新しい仏像や寺が焼かれた。
 
しかし、疫病の流行はそれでは収まらず、むしろそれからが隆盛を極めた。
 
人々は今度は、寺を燃やすなどしたから仏が怒ったのだと考え、逆に仏を崇めるようになった。
やがて、疫病は収束していった。
 
これが、日本に仏教が受け入れられ、根付いていくことにつながった。
 
奈良時代の天平年間にも、疫病が蔓延した。
 
これは天然痘とは別の、麻疹であったと思われるが、だれも免疫を持っておらず、人々はバタバタと死んでいった。
 
なんと、日本の人口の3割が死んだ、という推計もある。
 
藤原四兄弟と呼ばれる、当時の政府中枢を担う者たちも全員、この病を得て亡くなった。
 
これほどの大きな災難が生じて、人々がパニック状態に陥ったとしても不思議ではない。
 
当時の聖武天皇は仏教を熱心に奉じ、全国に寺を建てさせるとともに、都を次から次に変えていった。
 
そして災厄を鎮める目的で、あの東大寺の大仏を建立させたのである。
 
歴史の教科書を読むと、奈良時代になぜあれほど遷都を繰り返したのか、なぜあんな大きな仏像を造ったのか、不思議に思うことがあるかもしれないが、まさに疫病が関係していたのである。
  
なお、キリスト教の広まりについてはウイリアム・マクニールの「疫病と世界史」が、天然痘がアメリカ大陸に持ち込まれたことについてはジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」に詳しい。そして、今回のコラムに書いたことをすべて網羅しているのが、茂木誠氏の「感染症の文明史」で、おすすめだ。
 

いいなと思ったら応援しよう!