検図の段階で構造を変えたりするとライフが削られるという話
検図という単語を調べてみると、だいたい「出図の直前に図面の間違いがないかを確認する」という意味になる。
間違いのある図面が出回ると、加工屋さんから問い合わせが増えたり部品の寸法や数があわず組立の手が止まったり試運転時にうまく動かなかったり干渉したり、などなど手戻りが発生する。痛い。
手戻りが発生すると時金問わず余計なコストがかかってしまう。痛い。
これを未然に防止しよう、というのが検図の主な目的になろうかと思われる。
ところが
検図の段階になって「これいる?」とか、「こうやり替えたほうがいいな」とか、構造レベルでひっくり返されることが割とある。
図面の間違いがどうとかではなく完全なやり直しである。
この瞬間、手戻りを防ぐはずの検図によって手戻りが発生したことになる。
出図は明日、終電まであと何時間だっけ、
ライフはまだ残ってる、
製図班がこんな状態で図面の間違いを減らせるだろうか?
答えは明らかであろう。
いっぽう、こんな事態を引き起こしているのに検図したほうは実に満足気である。
間違った図面が出回るのを防ぐことができたその上コストダウンにも貢献できた土壇場でポンポンアイデア出せる俺超スゲェとか思っている。
製図班のライフを削っておいて、自分は定時に赤ちょうちんである。ふざけるな、おいふざけるなと。
さて、ここで悪いのは何か(誰か、ではない)
製図の精度? 違う。
構造のアイデア不足? 違う。
検図のタイミング? 違う。
検図のやり方? 違う。
悪いのは検図と構造レビューがごちゃ混ぜになっていることである。
構造の話は構造検討の段階で終わらせるべきである。
そこからの変更は、たとえ部品の点数や加工の手間を多少減らせたとしても全体のコストは上がる、基本的にただの手戻りなのだと強く認識する必要がある。
(大チョンボに気付いてしまったとかはあるが、それはまた別の話)
検図は検図で、書き間違いや寸法抜けなどに集中して行い、注意力散漫によるチェック漏れを少しでも減らせるようにして事を進めていきたいものである。
全ては、良い製品を安く遅滞なく世に送り出すために。
ひいては、私たちの健康で文化的でちょっと豊かな生活のために。