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奈良でゆく年くる年 (3)
昨日は、2日目の薬膳料理まででした。
今日は、食事の後に出かけた長谷観音の「万燈会」から始まります。
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長谷寺
寒さ対策をして大和八木駅から近鉄に乗り、長谷駅まで行く。
そこから20分ほど歩いて長谷寺へ向かう。
回り道を避けて三角形の一辺をいくような形で階段を下る近道でいくが、
これが中々の階段で、帰りの登りが思いやられる。
やがて初瀬街道に出る。もう夜も更けてきたので・・もしくは大晦日でお休みなのか商店は扉を閉めてひっそりとしている。
この道はいわば長谷観音の参道とも言える道だと思うが、ほとんど人通りもない。これが東京の浅草寺の観音様だったら、
一晩中賑やかだろうと思うと、
今ひとつ「へ〜っ!!」と納得できない思いでひたすら長谷寺を目指す。
やがてライトアップされた山門が見えてきた。
「美しい!!」
大晦日の19時から登廊に灯される「観音万燈会」の灯りが、闇夜に浮かび上がっている。
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さぁ〜これから登廊と呼ばれる
400段の階段が待っている。
山門に着く頃、降るか降らないかぐらいの小雨が降ってきているが、幸い屋根があるので、傘はいらない。出かける頃には星空だったので、傘は用意して来なかったのだ。
登廊の半ば過ぎまでは比較的段差の緩い階段で、足元を照らす灯りや、すれ違う人々の様子などに目をやりつつ登るが、半ば以降はだんだんときつくなってくる。
元々上まで登ろうかどうかを思案していた夫は、大分遅れて後ろの方に
いる。
その姿が見えるのを待ちながら、私も適当に休みつつ、最後の階段を
登り切り、本堂前に到着、しばらくして夫も到着し
「やぁ〜、登れたな〜」といって息を弾ませている。
本堂前は清水の舞台のように張り出していて、そこから見る風景には、
今登ってきた回廊の灯りが浮かび上がっている。
周りに全く灯りがないので漆黒の中に灯篭の灯りが、海に浮かぶ漁火のように光っている。ここならではの情景だろう。
きっと昼間とは全く違う光景だ。
桜の頃や紅葉の頃の景色もいかばかりかと想像を掻き立てられる。
本堂奥に高さ10mのご本尊十一面観音様が
いらっしゃるのだが、大晦日の今日は残念ながら、
長い緞帳が下りていて、お顔を拝見することはできない。
大晦日の日には観音様はカバーされ、除夜の鐘と共に
緞帳が外されるのだそうだ。
私たちは除夜の鐘を待たずにホテルに戻るので、
残念ながら拝顔できない。
しかし、湘南に住まいする私は、鎌倉の長谷寺で奈良の観音様と
双子と言われる観音様を何度も拝見している。
鎌倉長谷寺に伝わるお話によると、奈良時代の721年に
僧侶の徳道上人が楠から2体の観音様を彫り、1体は奈良の長谷寺に、
1体は海に流したという。
その1体は15年間もの間漂流し、736年に相模国長井の浜(現在の横須賀市長井)に打ち上げられ、現在の場所まで人々が力を合わせて
運んだという言い伝えがあるそうだ。
鎌倉長谷寺にお参りする度に、観音様の大きさに驚くが
その仏様と同じ仏様が、緞帳の陰に隠れていらっしゃると思うと、
今日拝観できなくとも、ここまで来られたことで十分と思わせてくれる。
ホテルに戻ってテレビをつけると、ちょうど紅白歌合戦が終わり、
「ゆく年くる年」が放映されており、奈良長谷寺でご本尊の前で
ご開帳を待つ人々の姿が映し出されていた。
それにしても奈良時代の昔から「初瀬詣り」として物語などにも登場する長谷寺、当時の装いで登り切るのはさぞ大変だったことだろうと想像する。
長谷寺は「花の寺」としても有名で牡丹も
知られるが、今の時期は雪囲いをされた
冬牡丹が照明を受け、楚々と輝いていた。
八十路の私達が、果たして階段を登りきれるだろうかと不安を抱えつつも、ツアーコンダクターの心配りで無事に目的を達成出来、
有難い事だ。
やっぱり、来年では無理だったかもしれない・・・
2025・1・1(水)
ホテル9:00→🚌橿原神宮→🚌→ランチ→🚌談山神社→🚌川原寺跡弘福寺
→🚌ホテル→レストラン
新しい年が明けた。
「新年明けましておめでとうございます」
初詣の人出で車の渋滞も心配される中、比較的スムーズに車は進み、駐車場に入る段階では車の行列が出来ていたが、慣れた運転手さんの機転でそれほど待つこともなく駐車場に入れた。
バスから眺めてもとても広い敷地ということがわかったが、
甲子園15個分の敷地があるということだ。
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橿原神宮は神武天皇が高千穂を出て、日向灘に面した美々津という港から、東遷の旅に出られたことは、昨年高千穂峡を
訪れた折に学んだ。その折りに、天皇の出発が1日早まり、
用意していたお餅の材料を慌てて撞き混ぜて天皇に捧げたと
いう故事があり、その故事に則って「月入れ餅」という
宮崎名物ができたという。「ツキ」を入れるという、
羽二重餅に餡が入ったようなお餅を食べたことを思い出した。
そして天皇が行き着いたのが畝傍山の麓の現在の地で、
神武天皇として即位なさったという。
そこに明治天皇が京都御所内のお社を下賜なされて大社を作り
神武天皇と皇后を御祭神として明治23年創建となった。
まず目につくのは白木造の高さ約10mの大きな鳥居。
あえて塗装せず白木の美しさを表しているそうだ。
周りの木々は名前の由来となる樫の木々の森だという。
参拝するのに並ぶのかと思ったが、その心配もなくすんなりとお参りを
済ませられた。ここでも、首都圏との違いを実感する。
明治神宮など名の知れた神社仏閣は、少なくとも数時間の行列を覚悟しなければならない。人口密度の違いはこんなところにも現れている。
橿原神宮の大絵馬は有名らしく、この前で記念撮影するための
行列が出来ていた。
神宮への入り口はいくつかあるらしく、解散するときに、
「必ず元の入り口に来てください」と言われていたので、
あまりあちこちするのも憚られ、拝殿前で、お守りやお札を見たり、
夥しい数の露店が出ているので、それらの様子を見ながら
ゆっくりとバスに戻った。
あとから同行の方に伺うと内殿に入ってお祓いをしていただいた
という方もいらした。
ゆっくり出来るならば、内宮の庭園なども見てみたいものだった。
ツアーの簡便さと個人旅行の気ままさの両方取りは難しい。
ここ数年、人混みでお参りするのを避けていたので、何年振りかのお朔日のお参りをした。
・・「今年も家族揃って変わりない日常が過ごせますように!」
交通渋滞と駐車場待ちの双方を考えて、時間的に余裕を取られていたので、ランチには少し早かったが、「柿の葉寿司」店に
行き柿の葉寿司の昼食をとった。献立のお素麺はいただいたが、柿の葉寿司があまり好きでない私は一つ摘んだだけでご馳走様!
談山神社
大化の改新が行われるきっかけとなった場所として有名だが、私がここに
来たいと思ったのは、ここで催されるお能や雅楽が放映されたのを見て
「すごく風情のある場所!・・行って見た〜い」となったのだ。
調べてみると、日本の歴史に関わった重要な場所と知り、
談山神社への想いは深くなった。
ここは多武峰(とうのみね)と呼ばれる山の中腹にあり、
駐車所から本殿に行き着くまで、結構な階段がある。
やれやれ・・・・。
大化の改新が行われるきっかけとなったのが、「乙巳の変」
(いっしのへん)と言われる事件だ。
その頃勢力を誇っていた蘇我氏に対して、なんとかしたいと
考えていた中大兄皇子が、蹴鞠を通して中臣鎌足と出会い二人で密談した「談い(かたらい)の山」として知られ、それが社名になっている。
藤原鎌足の弟、藤原不比等が神殿を建て、藤原鎌足の息子定慧が十三重の塔を建てた。
十三重の塔は木造の十三重の塔として世界に唯一のものという。
この塔の写真を見て「ぜひ見てみたい!」と思ったものだ。
実際に目にする塔は、屋根の四方を少し反り上がらせ、ほんの僅かづつ大きさを変えながら重なり合う姿、お堂の渋い朱色、屋根の檜皮葺(ひわだぶき)の色との調和が美しく見惚れてしまう。
「来てよかった!」と思わせてくれる。
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定慧が建てたのは678年だが、現在あるものは1532年に再建されたものだという。
帰路、対岸の山からみた十三重の塔は、枯れ木の中で目立たないが、
紅葉や桜の頃はさぞやと思わせる佇まいだった。
私がテレビ番組から得た情報としては、その談合が行われたのは今の談山神社の裏にあたるところで行われ、中大兄皇子は
「この計画が成就した暁には中臣鎌足に良い名前を与える」
と約束し、そのとき山藤が咲いていて花びらがハラハラと散っていたことから、のちに藤原の名を授けて中臣鎌足から藤原鎌足になったという話だった。
談山神社には絵巻物が残されており、それには鎌足誕生から、乙巳の変が終わるまでが色鮮やかに描かれている様子も放映された。今回、拝見はできなかった。
絵巻物には
* 鎌足誕生の時に「鎌足」という名の所以になった、誕生の時に現れたと いう口にカマを加えた狐の絵。
* 蹴鞠の最中に中大兄皇子の靴が脱げてしまい、それを笑う蘇我馬子と
靴を拾い上げて恭しく中大兄皇子に渡す中臣鎌足の姿
* それを契機に中大兄皇子と中臣鎌足が近しくなり、山中で密談している様子
* 乙巳の変で蘇我馬子の首を刎ねて、その首が飛んでいる生々しい様子
等々
現在ではここで、当時の衣装に身を包み蹴鞠体験ができるプランもあるらしいが、実際に蹴鞠が行われた場所は現在の飛鳥寺付近であったようだ。
中大兄皇子は後の天智天皇。
私たちグループはここで「新春ご祈祷」を特別に受けた。
日光東照宮の社殿の見本ともなった社というが、しっとりと
落ち着いた風情が好ましい。
帰路は階段を避けて、山道をぬける細い道から駐車場に出た。
続く
ここまでお読みいただきありがとうございます。
また、明日UPいたします。