父の資格 1
「お前が馬鹿だからまともに学校にも通えない馬鹿ガキに育つんだ」
銀次郎は持っていた箸の一本を絶妙なコントロールで投げた。
箸は亜季の顔の横を高速で飛んで、襖に当たって落ちた。
亜季の背後にいたりんがそっとそれを拾う。
りんの入学祝に買ったランドセルが、ほとんど使われることなく半年が過ぎようとしていた。
「お絵かきだか何だか知らねえけど、だからお前や、お前のご実家連中みてえなお偉い文化人様はどうしょうもねぇんだよ。」
絵の具で汚れたエプロンを着けたままだった亜季は、ムッとしてそれを脱いだ。
鼻にもピンクの絵の具が付いている。
「何が文化人よ。うちの実家がなんでいちいち出てくるのよ。
学校は行かせてます。今日はりんの体調が悪かったの。
あんなにいっぱいの子供を一度に面倒みようって、学校の方がおかしいのよ。
何時間も机の前に座らせられたら具合悪くなる方が普通だわ。」
「この大馬鹿野郎!」
もう一本の箸を飛ばす。
亜季はそれを避けた。背後のりんが、また箸を律義に拾う。
「だったらお前はどうやって大学まで出たんですか?
授業中みんなの机の上でも跳ね周ってたんですか?
鼻を拭けよ、鼻を。トナカイじゃねんだから。」
「銀ちゃんまともじゃないから、授業なんか聞いていられたのよ。
あたしは授業中先生をやり込める方法考えてたわね。
勉強なんか学校で覚えるもんじゃないわ!」
鼻を擦るものだから、ピンク色が亜季の両頬に広がった。
りんの手に箸が二本揃ったので、箸同士の会話が始まっていた。
ー「ねぇ、あっちのさきに素敵なお花がたくさんの森があるの知っていて?」「まあ!あなた、頭の先がかけてるわよ」ー
「箸で遊ばせるな!」
銀次郎が怒鳴るとりんは箸を座布団の上に揃えて置き、亜季が脱いだエプロンをかけ布団のように被せる。
「あら、お箸さん寝ちゃったの?」
亜季がりんに言った。
「うん。遊んじゃ駄目だからね。」
りんが箸をぽんぽんとあやす。
「なんで箸が座布団に乗ってるんだよ!そこ猫の寝場所じゃねぇか!」
「銀ちゃんが投げたんでしょ!」
「てめぇは常識ってもんがねぇのがこの低級文化人が!腐れ画家が!ベレー帽かぶってろ!」
「だから、なんなの?文化人、文化人って、自分は成金猿人類じゃないの、ゴリラ!」
「ゴリラじゃねぇよ!ゴリラが箸使うかよ。
ちょっとは考えろこのベレー帽ザル。」
りんが箸を手にして、亜季と銀次郎の中間に座って言った。
「お箸、使っていいよ。」
りんの優しいほほえみで言葉に詰まった銀次郎がりんを見ていると、
りんは亜季のエプロンで箸を拭いた。
それから亜季の方を振り向いて、
「お箸、綺麗になったでしょ?」と言う。
銀次郎を睨んでいた亜季はりんを振り向き
「そうね、猫の毛も取れたね。」と言った。箸にエプロンの絵の具が移っている。
「絵の具がついてるじゃねーかよ!」銀次郎は再び亜季に怒鳴った。
「おい、お前絵の具全部持ってこい。今すぐ持ってこい。ほら、行けよ。」
無理やり亜季を立たせ、部屋の外に押し出すと、りんも亜季の後ろについて出て行ていった。
銀次郎が休みがちなりんを無理にでも学校に行かせろと言うのに、亜季のは渋るりんにいつも負けている。
俺の意見を聞けよ!俺の!と腸が煮えくりかえっているところに、亜季が絵の具の入った箱を持って入って来た。
りんは入口に半身を隠くし、二人を見ている。
「それで全部かよ。」
「何がよ。」
「絵の具だ、馬鹿野郎。」
「全部よ。」
「それ誰の金で買ったんだよ。え?」
亜季は無言のまま銀次郎の頭上で絵の具の箱をひっくり返した。
中身をひねり出した後のチューブの山が銀次郎の頭の上に落ちる。
「お前もう絵、かくな。」
銀次郎は、頭に引っ掛かっていたチューブを亜季の方へ投げつけた。
亜季が避けたチューブは部屋の隅に落ち、りんが部屋に入ってきてそれを拾う。
「そんならこれは」
亜季はテーブルの上のステーキ肉をむんずと掴むと押し入れのある方角に投げた。「誰が焼いたのよ!」
襖に肉汁で大陸のような跡が残った。
銀次郎が窓を開け、外に絵の具を投げ始めると、いつの間にか近づいていたりんが、手にした絵の具を銀次郎にそっと差し出した。
「投げなさいよ。」亜季が銀次郎に言った。「ゴリラそっくり。」
小さな手に握られた絵の具。銀次郎はその手をはじいた。
はじかれた手を所在なさそうに持て余すと、
りんは床に落ちた肉を拾って銀次郎の皿に戻し、また二人の中間に座った。
「俺は食わねぇからな。」
銀次郎が言うと亜季は
「なんなの、大人げないわね。」と言う。