父の資格 3
帰宅して車を降り玄関に向かうと、猫を家に入れる為に玄関のドアを支えていた亜季が閉めようとした。
足を突っ込むと亜季はばつが悪そうに笑う。
こういう時は責めない方がいい。どうせ晩飯を作るのを忘れて絵を描いていたのだろう。
「外に飯食いに行く?」銀次郎が言うと、亜季は笑い顔になった。
「銀ちゃん何食べたい?りん、りん、ご飯食べに行こう!」
亜季が家に入ると、腹を空かせたりんが入れ替わりに走り出してきて銀次郎の足に抱き着いた。
「りんりん、何食べたいの?りんりんは。」
銀次郎はりんを抱き上げる。
りんは散々、母の絵を描く作業が終わるのを一人待っていたのだろう。
細い腕で銀次郎に抱き着くと、首っ玉に顔を埋めて「銀ちゃん、肩車」と言う。
肩車をして貰ったりんはさながら軍監マルスのように声高らかに「アイスクリームの店!」と叫んだ。
「またぁ?アイスクリームじゃなくて、カレーの店だろ。アイスはデザート!こないだ食ったばっかりだよ。りんりんは保守派だなぁ。」言いながらりんを体の前へ回し、逆さまにする。りんが鈴のように笑った。
「亜季っち~ん、早く!」
亜季を呼ぶ。
「猫にご飯あげたらすぐ行く!」
家の中から亜季の返事が反ってくる。りんも「亜季っち~ん!」と銀次郎の真似をした。
「りんりんさぁ、亜季っちんはいつも用意が遅いよね?」と言うと、りんはいたずらっぽく、くすくすと笑った。
「もっかい肩車して銀ちゃん。」と銀次郎の大きな身体によじ登るりんの、小さな、体温の高い体がくすぐったい。
二人を乗せ、再び車を発進させた。
横には、亜季。バックシートにりん。
りんは窓の外を見ている。
銀次郎は軽快に車を走らせた。お気に入りの曲をかける。
どんなに尽くしても感謝しない女を嘆く歌詞を聴きながら「俺の歌だ。」と言うと亜季は笑った。曲に合わせて歌いだすと、亜季も一緒に歌い出した。
亜季に話したいと思っていたことが次々と頭に浮かぶ。
「佐々木が結婚するんだって。」
「え!プロポーズ出来たんだ、あの人。」
「出来た出来た。俺がきっちり指南してやった。」
「なんて言ったの?」
「デート中は解剖の話止めて、旨いものでも食わせろって。」
「じゃ、何の話したのかしら?」笑いながら言う亜季
「くじらの交尾の仕方。」
「よくプロポーズ受けて貰えたね。」
―愛しい女の前でクジラの交尾の話をしている佐々木。
「金、いくら包んだらいいかねぇ。」
「ホント。」
「医者の倅だしなぁ。コネも仕事の内だし、十万は必要かねぇ。」
「そうねぇ。銀ちゃんも大変ね。」
家の頭金に貯めている金を少し崩すか。
「相場じゃ五万くらいか?」
「あたしの友達なら千円でも誰も気にしないのにね。」
「そうだよな。俺も他の奴なら二万で済ます。」
亜季がふふふと笑う。
「医者の世界の常識は分からんからな。」と言うと、神妙に窓の外を見ていたりんがか細い声を出した。
「千円とか十万円とかはどうでもいいんだよ。」
時々、唐突に妙な口を挟む奴だ。
「子供がさぁ、大人の話に口出すのはさ、止めない?」
「だって、星の王子様がお友達には心を捧げるんだって。大切なことは目で見えないから。」
「何が星の王子様だ。お前なんかに意味が分かるか。」
「銀ちゃんがくれたから大切に読んでるのよね?」亜季がかばう。
「そういうことをね、俺は言ってるんじゃないの。
お前この馬鹿に教えとけよ。大人の話に口出すなって。」
りんは止めない。
「だって、銀ちゃんにとってのお金の大切さと、お友達にとっての大切さが違うんだけど、
大事なのは銀ちゃんにとってどれくらい大切なものをお友達にあげるかだもん。」
「そういう問題じゃねぇよ。常識の問題だ。
常識の欠片もないくせに偉そうなこというんじゃないよ。
そういうやつに限って金たかるんだ。クズ。」
亜季が口を開きかけると、後ろからりんが
「そんなら十万払うしかないじゃん。」と言う。
「降りろ、こいつに口の利き方教えとけ。」
知らないうちに降り始めていた雨の中に、いかにも被害者全と身を寄せ合って立つ母娘の姿がミラーに映る。
車を走り出させて、ああ、りんが窓から見ていたのは雨粒だったのかと思う。
いくら稼いで養っても、好きなものを買い与えても、全く俺の思い通りにならない女房と何を考えてるか分からないチビ。
俺の可愛い、可愛いりん。どうやって生きて行く気だ?
いいさ、一生喰って行けるだけ残してやる。
一生俺が面倒を見る。