“戦老”閑居して勇武充電
“戦老”閑居して勇武充電
“シーチン”修一 2.0
【雀庵の「大戦序章」144/通算576 2023/3/1/水】睦月、如月を乗り越えて、ようやく弥生。このところ寒気が緩んだので軽装にしていたら風邪をひいてしまった。油断大敵、警戒心を忘れるとひどい目に遭う。
現役時代、お世話になった印刷会社の社長から「プーチンは何処かで原子爆弾を使うか?」とメールを頂いたので、こう返信した。
<ヤケノヤンパチ、キーウに核ミサイル数発。「連帯を求めるも孤立を恐れず」がレーニン流です。小生がプーチンなら絶対やります。米やEU、NATOなど西側陣営は核戦争の拡大を恐れて、核ミサイルによる報復はできません。精々断交するしかできないでしょうね。
プーチンもスターリン同様、人間の命なんて全く価値を認めていませんから、100万人、1000万人が死んでもびくともしません。毛沢東は1億人を餓死やテロで不自然死させましたが、全く平気でした。習近平も同様です。国交断絶するしかないでしょうね>
残虐な赤色遺伝子のDNAがマルクス→レーニン→スターリン→毛沢東→プーチン&習近平へと受け継がれている。DNAには「楽天的から悲観的まで」性格を左右するセルトニン遺伝子があり、明るいLL型、中間のSL型、暗いSS型に分類できるという(橘玲著「言ってはいけない 残酷すぎる真実」)。
プーチン(ロシア人)は基本的に疑心暗鬼的のようだから暗いSS型か? 習近平は毛沢東と同じように自分を神格化しているから妄想的なLL型かもしれない。
橘氏によると「日本人は70%が暗いSS型、明るいLL型はたったの2%で世界一」だそうだ。日本人は自殺しやすいDNA、確かにド演歌なんぞ「死にたい」「泣きたい」「悲しい」の連発、心中なんて美学になっちゃっているし・・・戦後の平和ボケもあって勇武を尊ぶ武士道はどこへ行った?
憂国の情は募れども風邪には勝てぬ、軟弱ながら今日も体調が心配なので外出は控え、昨年あたりから始めた「ルーツ探し」を再開したが、母方の従兄の中村智廣氏(弁護士)にチェックして貰う了解を得たので以下、下書きを書いた。全部、実名。
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突然ですが、中村秦子(やすこ)伯母さんに取り上げていただき、中村覺(さとる)伯父さんに命名していただいた石井修一です。
鈴鹿神社そばの石井君蔵(屋号:精米、座間町入谷3117)の石井茂(旧姓・関山)、石井静江(旧姓・久保、最初は石井家の跡取りの武男さんに嫁したが戦病死)の長男です。
父母は小生が4歳(1955年)頃、父の生まれ故郷である現在の地に引っ越しました。
秦子伯母さんが入院した時、お見舞いに行ったのですが既に面会謝絶で会えなかったのは残念です。覺伯父さんの晩年には、義姉・石井千惠の伴侶・篤次(旧姓・山口)の三回忌がキャンプ座間近くの石井家の菩提寺で行われた帰路、お会いできて良かったです。
智廣さんにお会いした記憶はないのですが、(妹の)ミドリさんとは面識がありました。千惠姉は「マーチャン」とも遊んだ記憶があると言います。
母・静江(久保家、士族、通称:河原宿、大正9年生)は「私は士族の出」と誇り高く、父・茂(平民)はいささか辟易していましたが、静江によると母親の「ひさ」さん(旧姓・中村?)は優秀な警察官(仮にNさんとします)と子を成したものの、出産前にNさんが急逝したため、身重ながら久保健二(士族)の後妻として嫁いだそうです。
そして生まれた子が秦子さん(覺伯父さんに嫁いでからは通称「栗原の伯母さん」)、「だから優秀なのよ」と母・静江はよく言っていました。
さて、小学校低学年の頃(1960年前後)、母・静江は2年に1回ほど小生を「松田のオジサン」(中村家?)の大きな屋敷に連れて行きました。使わなくなった蓄音機と膨大なSPレコード盤が放置されていたこと、庭と外周に小川が流れ、裏にミカン畑があったこと、正面に寺か神社があったことを覚えています。
日本実業出版社のサイト「松田惣領と松田庶子」によると――
<小田急線新松田駅を降りると、駅前の電柱に貼られている看板に書かれた地名が「松田町松田惣領」。新松田駅周辺から北側にかけては「松田惣領」という地名が広がっている。ここからJR松田駅方面を過ぎて山北方面に歩くと、やがて「松田町松田庶子」という地名となる。ざっくりいうと、東側が「松田惣領」で西側が「松田庶子」なのだが、実際にかなり複雑に入り組んでいる。
そもそも「惣領」とは跡継ぎのこと。平和な時代である江戸時代には、よほどのことがない限り長男が跡継ぎとなったが、乱世の続く中世では跡を継ぐのは長男とは限らず優秀な子が家を継いだ。これが「惣領」で、その他の子どもは「庶子」といわれる。
この付近を支配した松田氏は、領地を惣領と庶子に分け与え、それがそのまま「松田惣領」「松田庶子」という地名になって現代にまで残っているのだ。ちなみに「松田庶子」の読み方は「まつだそし」。これも中世っぽい読み方だ>
さらに調べてみると「中村舜次郎(なかむらしゅんじろう)」が登場します。
<1847-1931 明治時代の政治家。弘化(こうか)4年8月5日生まれ。家は相模(さがみ)松田惣領(神奈川県松田町)の豪農。明治5年「足柄新聞」を発行。10年初代足柄上郡郡長となり、国会開設運動や東海道本線の敷設、治水などにつくした。41年衆議院議員(政友会)。昭和6年3月14日死去。85歳>
<年弘化4年8月5日(1847年)、没年昭和6(1931)年3月14日、出生地相模国足柄上郡松田惣領(神奈川県松田町)
豪農の家に生まれ、幕末期に百姓代を務めた。明治5年神奈川県内では横浜以外で初となる週刊新聞「足柄新聞」の経営を引き継ぎ、啓蒙的な活動を行う。11年足柄上郡長に就任し、以来、神奈川の国会開設運動や東海道本線開通を支援。また、治水事業でも実績があった。交詢社社員として福沢諭吉とも親交。41年には衆院議員に当選、政友会に属した>
中村覺伯父さんは、訳アリで不遇だった(?)「ひささん」の、その忘れ形見である秦子伯母さんを名門「松田・中村家に取り戻したのだ」・・・そんな風に小生は思うのですが、如何でしょうか。
「ひささん」の血を半分引く母・静江の息子である小生にも「ナカムラ式DNA」が多少伝わっているから、いつの間にか記者・ライター・編集を天職にするようになったのかも知れません。ご感想、ご指導を頂ければ幸いです。(以上)
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男は晩年になると「ルーツ探し」を始める人が結構いるようだ。国立国会図書館には「先祖・ルーツを調べる」というサイトがあるし、民間でも「自分のルーツを探る!家系図の調べ方と作成の依頼方法」といったサイトがある。しかし、個人が調べられるのは「明治19年式戸籍」あたりで、それだって自分の名前が入っている戸籍は「自身とのつながり(直系の親族かどうか)を証明できれば入手可能」とは言え、面倒臭そうだ。
苦手な分野はその道のプロに任せ、大好き=得意な分野では全力を発揮する・・・いささかエキセントリックながら「撃ちてし止まん」で前進していこう。
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ペンネーム:“シーチン”修一 2.0
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