推すことは難しい

私は推すという概念をついさっきまで誤解していた。私は愛情の表出、アウトプットを推すという行為であると誤解していたが、どうやら他者に推奨することが推すという意味であったらしい。ゆえに推すという言葉を示すなら客観的に見て好意的な表現である必要があるのかもしれない。

私は生まれてきてからずっと二次元のオタクだったので、三次元のオタクというものがどんなことをして、どんな苦労をするかあまり知らない。私も三次元のオタクだったら同じようなことをしていたのかもしれないと話題のnoteを読んで冷や冷やする。おそらく私も今話題のnoteと同じような性質だからだ。別のnoteでの話を読んでみると、親族が統合失調症で、家庭が不穏な雰囲気で育っていたようだ。常に自分の言っていることや思っていることが合っているか不安になるところまで私とよく似ている。私はそう感じてしまう。境界線があやふやな人間にとって二次元のキャラクターを推すという境界線があるものとは特別なもので、三次元の推し活にはそうしたリスクがあるのだなと思った。

推しから目線や言葉などの還元があるということは、余程魅力的なのだろう。だからスパチャというものが世に成り立つのだろう。とてつもない誘惑があるものであることを感じて身が固まる。あんなに危ない橋を世の中の人間はスキップ感覚で歩けてしまうのだ。

私は傍から見たら気味が悪いだろうほどに同情を感じている。病んだ家族の元で育つということや、近所の目という存在を意識する家庭で生まれた者の苦しみは、伝えることが簡単ではない。言ってしまうと人格否定をされることすらある慎重な話題だからだ。現代で言えばヤングケアラー問題のようなものである。病んだ家族の存在は後ろめたい存在だと家族内で言われるので、誰にも悩みを相談出来ないということは当然ある。常に底に不安が沈殿している分、自分の感情を共有しないと不安になってしまう。私の構造で言えばそうだが、今話題のnoteの主もそうであるかは流石にわからない。私は専門医でも何でもないからだ。

ただ確かなことは、彼が統合失調症の祖母のことを今でも罪悪感を感じていたりとか、そうした環境で人目を気にする母に育てられたことは、人と接して心地よさを覚えることに苦慮するということである。他の気持ち良さそうに推している人間と構造が違うのである。相手のすべてを好きにならなくても良いというバランスを保てる環境で誰もが時間を過ごせるわけではない。

私がこのnoteを書いたのは、そうした同情心を抑えきれなかったことで、私がコメントを直接書き込まないのは、コメントを書くほど押し付けがましく何かを言うには私はあまりに他人すぎるからである。少しずつ距離感を作ろうとしている相手に対しこれだけ他人の家庭環境まで口出しするのはかなり読んでいてしんどい上に、そうした行為含めてnoteの主の求める手本になれるような人間ではないからだ。人の言葉というのは毒にもなる劇薬である。とりわけ私は副作用ばかり出る身なのでなおさら控えたいのだ。ただ本人以外の人がこのnoteを見る場合、そうした背景も見てからの方が私よりも的確なコメントが出せるかもしれない。

話題のnoteの張本人がこのnoteを読むのであれば、神田橋條治医師であるとか、中井久夫医師の本を読んで、一人で抱えている祖母のことについて考えてくれている人の本を読んで少しは重荷が少しでも軽くなって欲しいと思っている。おそらく言葉を消化することに長けた人物だから可能ではあると思うが、果たして私がそんなことを押し付けがましく言っていいものだろうか。神田橋医師や中井久夫医師の本は本人のみならず精神疾患の家族を持つ人にはぜひ読んで欲しい。どの本かと言う指定はない。ただ優しく一緒に考えてくれている人がいると感じることが大事なのである。

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