人と繋がることが怖い

昔から人と関わることが怖かった。それは人が怖いからというだけではなくて、自分の独占欲や支配欲といったものを内心恐れていることも理由の一端であった。人々はこんな私を性格が悪いとか、我儘だとか、認知の歪みだと突き放すだけだろう。病院に行けという罵声もあるが、病院に行ってもこの感覚はどうにか出来る産物ではなかった。

独占欲が強いのは自信がないからというのはそうである。何かを積み上げようとすればするほどその努力に見合った見返りが欲しくて怒り狂いそうになる。だから私は努力するという選択肢を最初から放棄した。

親から虐待に合い、人からいじめにあった後で、人との繫がりに一定の信頼感がある前提で動くと言うのは私にとって理解出来ないことである。それこそ献上だとされる相手の認知こそ歪んでいるのだと思わずにはいられないほどだ。お互いが見てきた世界で見てきた事実を言い合っているだけなのだとわかるのだが、どうしても社会的な立場のない被害者側の言い分というのはないがしろにされてしまう。

親から得られなかった愛情を他の人に求めることは間違っている。そうした理屈が理解出来ないわけではないのだ。それでもまた同じ恐怖を味わいたくないという死に物狂いの魂の震え、目の前のご馳走を前に飢えた獣のようになっていく自分、そんな自分を抑えるために首輪をかけ、薬を与え、夢幻の中を彷徨うように生きようとする自分がいる。結局それ以外にどうにもならなかったのだ。神田橋はこれを感受性のレベルの違いで混乱していると医学部講義で言っていた。誰も悪者にしない優しい表現であると思う。私はおそらくそういった者なのだろう。

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