貴方と同じ幸せの形を愛せない

私は常に人から嫌われてきた。その根本の原因は人にとっての幸せの形と私の形が違いすぎたことだ。母はいつも友達100人を夢見てきた。日曜日に礼拝で遊べなかったせいなのか、友達と遊ぶことが子供にとっての一番の幸せだと信じて疑わなかった。

一方で私はお小遣い帳の数字が増えるのが楽しみで、それに比べたら遊ぶのはお金の無駄だと感じる子供だった。自分と同い年の子供よりは、自分に優しくて面倒を見てくれて、知らないことを教えてくれる先生の方が好きだったし、才能ある大人たちが力を合わせて作ったゲームほど面白いものは当然なかった。

父は母の幸せが自分の幸せの形のようだった。しかし父は母の幸せの中には存在していなかった。だから父はいつも肩身が狭くて仕事場とパチンコ店を行き来して、仕事場の話しかしない人になっていた。

学校に行けばいじめにあった。運動音痴な人間の居場所は学校のどこにもない。みんな見下して友達と一緒に笑いたい人たちだらけだった。母の願望の通りの友達がいるという人たちは、そうした醜い人たちだった。私は見下しているものに憧れなくてはならなくて、自尊心がなくなっていった。

私はどこにいても肩身が狭かった。どこにいてもここにいてはならない気持ちがしたし、相手の幸せを邪魔しているような気持ちになる。だというのに今度は一人でいると母の言いつけを破っているような罪悪感が湧いて、そうすると誰かと一緒にいると相手を利用してるような罪悪感も湧いた。

世間体を気にする母は私をゴミのように扱ってきた。父も母のために私に我慢といい子を強いてくる。他の子は他の子と仲良くするために私の悪口を言う。他の誰かがいるから、私は誰かから粗雑にされてしまうのだということを知ると、今度は独占欲の怪物になった。

だけど怪物として暴れ回ることも、人間のふりをすることも完璧になることも当然私には無理だった。嫌いばかりが積み重なっていった。そこまでふてぶてしくなりきれなかったし、要領も悪かった。

私は常に矛盾の中にいた。私より要領も愛嬌もある子がいじめられてしまった。私にとってはそれがあまりに理不尽すぎてショックだった。母が聖書で見たような世界がないとわかっていたから、母の言うことが虚しかったのに、信じないと存在してはいけない存在のように扱われる。母の幸せの在り方を信じようとすればするほど、苦しくて苦しくて、だんだん自分を嫌うことが当たり前になってきた。

それから母とも絶縁して、連絡を全員と断ってから数年経った。他人といる時にはかつての恐怖や怒りが溢れかえって正気で居られなくなる。私は自分といても人といても、気が狂うようになってしまった。安心して解離を治して人と繋がろうという医療の風潮でも肩身が狭く、医療の場にも行き辛い。

母はなんて間違いを、なんて酷く醜いものを押し付けてきたのだろう。私は一人でいたかったのに、誰も私といることを望んでもいなかったのに。怖くて隠れていたい以外の望みがなくなってしまった。何かをしたいと願えなくなってしまった。何もしたくないと願うようになってしまった。

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