自分とか、ないから。教養としての東洋哲学
皆さん自分探しをしたことがあるだろうか?
私は20代後半に、一度だけある。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
先日、本屋にふらっと立ち寄ったとき、今話題の標題の本に目が止まり、あまりにも目次に釘付けになり、気づけばレジでお会計していた。
電車で思わず笑い声が出てしまうほど、読めば読むほど面白く、でも頭は混乱していた。
私なりの解釈によると、東洋哲学を学んだ著者がたどり着いた結論、自分はフェイク、この世にいないらしい。
そんなこんなで、もちろん、自分探しをしたところでフェイクである自分なんて見つかるはずもない、ということだ。
確かに、東洋哲学では、全てのものが縁で繋がっていて、例えば私は毎日好んで水を飲んでいるのだが、その水はどこから来ているかというと、川からきており、その川は雨や雪が降ることによってできており、雨や雪は…となってくると、もう宇宙と繋がってくる。
人間は縁(繋がり)の中で出来上がっており、これが自分と言えるものが何もない、ということらしい。
なるほど、物質的に見たら、私は宇宙と繋がってできているのだろう。
また、私は世間的に見たら、娘で妻で会社員という顔で生きているのだが、それぞれ家族や会社のメンバーがいないと、成り立たない、フェイクの世界、相互依存の幻の世界に生きている、らしい。
確かに、もし自分が会社員でなくなったときを想像すると、あの世界はフェイクだと思える気がする、それとともに、会社の悩みからも解放される。
それをわかっていても、日々仕事内容や人間関係で悩むのは、なかなかその世界がフェイクだと思おうとしても、自分の悩みに取り憑かれ、ついつい忘れてしまう、というこだろう。
どういう時に、自分がなくなるかを感じられるか、と言えば、とことん不幸なことに見舞われた時、らしい。
高校生の時、数学の期末か中間テストで頭が真っ白になり、人生最低点を叩き出し、全学年最下位を取った日の帰りの電車のなかが、まるで映画の中にいるように、セピア色に見えたことがある。
その時、俯瞰的に自分が電車の一部になった気がした、その感覚だろうか。そういうことにしておこう。
自分は宇宙の一部だから、この世界もフェイクだから、確かにそんな世界で自分なんか探しても、どこにもいないのかもしれない。
そんな自分なりに都合の良い解釈をして、とても不思議な気持ちになった本でした。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
冒頭の自分探しの件を、昔の日記をもとに振り返ってみた。
その時、私は仕事に対しての働き方に不満があり、心が揺らいでいたので、自分を見つめ直すため、こんな働きかたがしたい、と思える方の現場に直接行き、話を聞きに行く旅をした。
その方は地域の寄り合いとなる、私設図書館を運営されていた。
話を聞きに旅に出るまでは、きっとそこに行けば、自分のこれからのヒントが見つかる、自分軸が見つかるに違いない、と意気込んでいた。
話を聞くと、その方も自分の働き方に疑問をもち、思い切って会社を辞めて、今の働き方を手に入れられた。
こうなれたらいいな、うらやましいな、という世界がそこには広がっていた。
ただ、私のその日の日記には、あろうことか、
「私にはそんな覚悟ができるだろうか…」
で締めくくられていた。
自分なんて、見つかっていなかった。
自分を探しに行っても、まだ見つからなくて、悩んでいたのだ。
そして、今も同じ会社で働いている。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
過去の自分が示しているように、この本の言うとおり、自分を探しても自分なんていないのだろう。
過去も今も未来も、色んなことに悩んで、自分と対話し続けて、たまに宇宙の一部だったことを思い出して、気を取り直して、また悩んで…、きっと、そんな繰り返しなのだろう。