梶井基次郎「檸檬」を拝読
梶井基次郎「檸檬」
古典文学を読むなかで必ずといっていいほど目にする名著。
冒頭から、現在の自分の心情を表現しているかのようでシンパシーを受ける。
「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦燥と云おうか、嫌悪と云おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。」
【梶井基次郎 檸檬 冒頭】
主人公の青年は、お金がない、借金取りに追われる日々。そんななかでも、丸善の文房具屋に行く道すがら人は、ふとした瞬間を楽しむことができる余裕があるのが救いだ。
「何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしても他所他所しい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転してあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と云ったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とすると吃驚させるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする。」
【梶井基次郎 檸檬 次ページ目】
カンナの花は特に、夏の真っ盛りである7月から9月までで、この期間に鮮やかな色彩の花をたくさん咲かせる。
【青空文庫より】
もの電燈が驟雨しゅううのように浴びせかける絢爛けんらんは、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。裸の電燈が細長い螺旋棒らせんぼうをきりきり眼の中へ刺し込んでくる往来に立って、また近所にある鎰屋かぎやの二階の硝子ガラス窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀まれだった。
その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬れもんが出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈たけの詰まった紡錘形の恰好かっこうも。――結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛ゆるんで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗しつこかった憂鬱が、そんなものの一顆いっかで紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。
「あ、そうだそうだ」その時私は袂たもとの中の檸檬れもんを憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」
私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌あわただしく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬れもんを据えつけた。そしてそれは上出来だった。
見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃ほこりっぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
――それをそのままにしておいて私は、なに喰くわぬ顔をして外へ出る。――
私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ほほえませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉こっぱみじんだろう」
そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩いろどっている京極を下って行った。
【所感】
丸善は、現代にも現存する本屋で文房具も販売しなさってる今や660億円を売上をほこる大企業だ。
レモンを、時限爆弾のように、仕掛けて爆発したとしてもびくともしないだろう。ささやか抵抗がつかの間の爽やかな時間を過ごせたに違いない。
かくゆう私は、長女のプールの待ち時間に、にわか雨が窓をうつ音を聞きながら、この役をするなら、どう演じるかを考えながら、次のプロットを考える
。