広島平和記念公園
広島平和記念公園の概要
(ホームページより)
なお、広島平和記念公園は国名勝に指定されています。
広島平和記念資料館
平和記念資料館は、「東館」と「本館」から構成されています。
東館1階にはチケット売場やミュージアムショップの他、企画展示室があります。2階と3階は常設展示のスペースで、本館を含めた展示全体の「導入」と「まとめ」の部分を担っているとも言えます。なお地下1階は無料ゾーンであり、新着資料の展示や「被爆体験伝承講話」が行われています。
展示のメインである本館は、「被爆者」と「8月6日のヒロシマ」という2大テーマで構成されています。また本館は国指定重要文化財です。
G7広島サミット記念館
2023年5月に開催されたG7広島サミットの記念館です。
首脳等が記帳した芳名録や首脳会議で実際に使用された円卓等が展示されています。
同館の設置は、2030年12月末(次期日本開催年)まで。
被爆遺構展示館
2022年開業。2019年からの調査により、地面から60〜90cm掘り下げた地中で見つかった、被爆当時の民家や道路跡が露出展示されています。
被爆アオギリ
当時は広島逓信局に植えられていました。被爆により枯れ木となりましたが、翌年春に再び芽吹いたことから復興の象徴となりました。その後、昭和48年に現在の場所へ移植されました。
広島市内の小学校で習う「アオギリの歌」は、広く市民に親しまれています。
https://dive-hiroshima.com/explore/3301/
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」に基づき設置されました。
爆心地から見た被爆後の街並みを表現している平和祈念・死没者追悼空間などがあります。
https://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/about/index.html
原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)
中央の石室には原爆死没者名簿が納められています。
「原爆犠牲者の霊を雨露から守りたい」という趣旨から、屋根の部分がはにわの家型をしています。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%AD%BB%E6%B2%A1%E8%80%85%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A2%91
原爆の子の像
原爆により12歳で亡くなった佐々木禎子さんの同級生の運動により建てられました。
佐々木禎子さんは2歳のときに爆心地から1.7km離れた自宅で被爆しました。被爆直後は火傷も傷も負いませんでしたが、12歳のときに白血病を発症しました。
入院中、病気を治したいという願いを込めて折り鶴を折り続けていました。今や折り鶴は平和を願う象徴となっています。
レストハウス
大正屋呉服店が基にある被爆建物。
原爆投下時には、地下室にいた人だけが唯一の生存者となりました。
2階の"ピアノカフェ"には被爆ピアノが展示されています。
参考
https://hiroshima-resthouse.jp/
原爆供養塔
被爆直後、慈仙寺(現在の原爆供養塔付近)の境内は、臨時火葬場となり、そこには氏名、年齢、性別などがほとんど分からない遺体が運ばれて火葬されました。昭和21年には慈仙寺鼻に供養塔が建立されました。
昭和24年から平和公園の建設が進められていく中で、瓦礫の奥底に眠る遺骨が次々と見つかりましたが、引き取り手が見つからないほとんどの遺骨が供養塔に納められました。
中には身元が分かる遺骨もあるため、市は「原爆供養塔納骨名簿」を公開し、遺族を探しています。
https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/atomicbomb-peace/15518.html
原爆ドーム
チェコ人のヤン・レツルの設計により、大正4(1915)年広島県物産陳列館として完成しました。県内の物産の展示や即売、商工業に関する調査・相談などの業務を行っており、美術館や博覧会の会場としても利用されていました。
その後、広島県立商品陳列所、広島県産業奨励館と改称し、大連・新京・ハルビンに出張所を、奉天・天津・上海・神戸に事務所を設置しました。
昭和19(1944)年からは内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材株式会社などの事務所として使用されました。
https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/atomicbomb-peace/163434.html
https://x.com/hiroshimatuu/status/1822129007053447602?s=46&t=H0HYNOgx-QybacTkldLhMA
近距離で爆発した原子爆弾の威力は凄まじいものでしたが、建物の屋根やドーム部分は鉄骨部分を除き、多くは木材で作られていたため、真上からの爆風に対して耐力の弱い屋根を中心につぶされ、厚く作られていた側面の壁は完全には押しつぶされず、倒壊を免れました。
2021年の第5回保存工事にて、頂上のドーム部分が、被爆当時に近い色になるよう塗り直されました。
https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/atomicbomb-peace/224346.html
相生橋
ユニークなT字型が原爆投下の目標となったことはよく知られています。
現在の橋は、御影石が使われています。
その他の石碑等
平和公園には他にもたくさんの碑があります。
下のサイトには一覧が記載されています。
広島平和記念式典
毎年8月6日に行われる「広島平和記念式典」ですが、正式名は広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式といいます。
第1回は1947年に開催された「広島平和祭」です。この平和祭では式典のほか市内各所で盆踊りや仮装行列なども催されました。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B9%B3%E5%92%8C%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%BC%8F%E5%85%B8
令和6年式典の式次第は以下のとおりです。
なお、以前から式典中のデモ行為や、それによる騒音が問題となっていました。
令和3年に施行された広島市平和推進基本条例の第6条2項では以下のように規定されました。
広島平和記念都市建設法
昭和24年8月6日に施行公布された広島平和記念都市建設法に基づき、国から特別な予算補助が行われました。平和記念資料館や平和記念公園の整備費はこの補助によって支援されました。
原子爆弾で廃虚と化した広島市の復興は、税収の激減等から困難を極めました。国に対し、広島市への特別な援助の請願を行いましたが、多くの戦災都市のなかで、国が広島市のみに特別な援助を与えるには法的な根拠が必要でした。その根拠として、1949(昭和24)年に制定されたのが広島平和記念都市建設法です。
なお、この法律は広島市のみに適用される特別法です。日本国憲法第95条の規定に基づく特別法としては全国で初の事例となりました。
おわりに
インバウンド客が戻ってきたこともあり、資料館の入館者数も過去最多を更新しているようです。しかし、WEBチケットを利用すれば待ち時間なしで入館することができました。
資料館の常設展示は定期的に入れ替えがされていますし、また様々なテーマの企画展も行われています。そのため、旅行客だけでなく、広島市民も何度も訪れる価値があると思います。