石内と原爆(広島市佐伯区)
石内地区の概要
広島市佐伯区の石内地区は、市街地から西方に直線距離で約7Kmに位置しており「西風新都」の一部でもある。
県内有数の交通量がある県道原田五日市線「石内バイパス」が通っている他、「THE OUTLETS HIROSHIMA」や広島県運転免許センターは当地区に所在している。
昭和20年8月6日当時は「佐伯郡石内村」であり、広島市外であった。しかし爆心地からの距離が近いために衝撃波・爆風の被害を受けた。また、「黒い雨」が降ったことも確認されている。そして、市内から逃れてきた負傷者たちの救護活動が行われた。
原爆被災時の石内の様子については、「原爆と戦争 被爆前後の石内村の生活と体験」(石内地区被爆誌編集委員会、石内公民館, 昭和63年)という資料に纏められている。
突風、衝撃波による被害
爆心地との直線距離は7km程度であるが、3〜400mの山々が連なっているため、閃光も爆撃も直撃は免れた。しかし、間接的な突風、衝撃によって家の天井がはね上がる、壁が落ちる、襖や障子の飛散、硝子の散乱などの被害があった。
住民の手記によれば、「ピカ」という閃光と「ドン」という衝撃音は石内でも確認されたようである。
「間近い所に爆弾が落ちたのだと思った」という言葉から原爆炸裂の衝撃の大きさが窺える。爆心地近くの被爆者が「自分の家に爆弾が落ちたのだと思った」という証言をしているのを聞いたことがあるが、7km離れた石内においても同様の表現がなされていることが印象的である。
石内国民学校(石内小学校)でも教室の窓ガラスが木っ端微塵に飛び散り、血を流した児童たちが裏山に避難したようである。
黒い雨
原爆炸裂後のフォールアウトの一種である「黒い雨」は石内全域にも降った。
降り始めた時間については証言がさまざまあるが、北東部である原田地区で午前9時頃から10時頃までに降り始めたものと考えられているようだ。その後午後2時頃までは大雨となったようである。
被爆者援護にかかる「黒い雨」降雨地域の範囲については未だに明らかになっていない部分も多いであろう。しかし少なくとも、投下後間もなくに調査され、実質最初の推定雨域である「宇田雨域」においても石内での降雨が認められており、その後の「増田雨域」においては大雨地域に区分されている。
石内川では、腹を上にして死んだ大量の魚が流されていく様子が確認されている。
空からの飛来物
原爆の爆風が山々に突き当たり、上昇気流となって山々を越えて、紙屑やトタン板、紙幣等が市街地方面から飛来した。
救護活動
午前9時半頃からは、己斐峠を超えて、多くの被爆者達が避難してきた。
大竹や五日市方面を目指す被爆者達が農家に立ち寄り、食料や水を求めた。中には重症者を1か月も泊めて看病した家もあるようだ。
縁故を頼って、石内に疎開した者は数百人を超えた。
また、役場や寺は重症者や避難先のない人たちの救護所となった。
中でも浄土寺は石内の最大の救護所となり、多いときには100人を超える被爆者で溢れ、本堂に入りきらないほどであった。
連日のように重症者が苦しみながら亡くなり、近くの火葬場で遺体を焼いた。
青年学校の女生徒や婦人会役員、近隣住民に対しては村当局から動員命令が出され、1ヵ月以上にわたり炊き出しや看病などの救護活動を行った。
避難者を除き、石内地区にあって被爆死した者はいないと思われるが、当然出先で被爆し亡くなった石内の出身者は大勢いる。
新藤兼人作品と原爆
石内出身の映画監督・脚本家 新藤兼人は原爆を題材とした作品を多く制作している。
新藤自身が原爆を体験したわけではないが、「反戦反核」を一つのテーマにしている。
代表作の一つである『原爆の子』(1952年)は、戦後初めて原爆を直接取り上げた作品とされている。
『さくら隊散る』(1988年)は、広島で原爆に遭って命を落とした移動劇団「桜隊」についてのドキュメンタリードラマである。
また、新藤の母校を作品の舞台とした(注:撮影自体は石内小では行われていない)『石内尋常高等小学校 花は散れども』(2008年)には、顔にケロイドを負ったり、家族を亡くすなど、原爆によって人生が一変したかつての同級生達が登場する。
おわりに
最後に、私が21歳のとき(3年前)に作成した「石内の史跡」という資料を載せておきます。史跡紹介が主ですが、原爆に関する記述もしております。