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幸福と自信の欠如

最近自分の中で、変化、と呼べるものが起きた気がする。少しだけだが、精神が成熟したような、そんな気分だ。もちろん、まだまだ未熟であるのに変わりはないが。一つに、自分が特別な存在でないことを受け入れることができたような気がする。ちょうど今から一年前の頃は、自分が何者かわからなくて、何者かになりたいけどどうしたらよいかわからず懊悩していた。ほかの人から称賛され尊敬されるような何者かになることこそがまさしく自分の人生における幸福だと思っていた。そのときもうすうす気が付いていたとは思うが、承認欲求は満たされたとしてもより高い承認欲求がまた現れるだけで終わりはなく、そのような心持では虚構の幸せ像を日々追い求めるだけで一生幸せになれないでいただろう。人にはその数だけその人にとっての幸せがあり、それを大切にして生きていくのが自分にとっての真理であると最近は思っている。自分にとっての幸せを構成する要因のもっとも重要なものの一つとして、良好な人間関係がある。これはありきたりな要素ではあるが、まさに特別ではなくなった自分は、この事実を受け入れることができるし、むしろ歓迎こそしている。自分にとってたいていの悩みは人間関係についてであると思えるし、逆に人間関係に何ひとつ悩みがなかったら今の自分は何を考え、どのような毎日を送っていただろうと思うくらい、自分の生において大きな影響を持っている。たんにある人との関係についての悩みではなく、その関係性の中でとらえられる自己についての悩みもそれは内包している。
その中で自分が抱える最も本質的な問題点が一つある。それは自信の欠如である。さきほどたいていの悩みは人間関係であると書いたが、その根本には自信のなさが存在している。自信がないことは様々な問題を引き起こす。第一に、人と親密な関係を築くのに苦労を要する。自信がないひとの多くは自己評価が低いため、自分のことを本質的につまらない人間だと思い込んでいる。そのため人に積極的に関わることをためらってしまう。自分のような人間が話しかけても相手を楽しませることはできない、相手はきっと退屈するだろう、という潜在的な観念が人との交流を遠ざける。特に容姿が優れた人、優れた知性を持つ人の前では、自分がつまらない人間であることを隠そうと虚勢を張り、自分の内面の多くを隠そうと努める。その人にとってどういう自分が一番その人を退屈させないかを考え、そのキャラクターをひたすらに演じる。また、そのように特別優れた人以外の人とかかわる場合にも、自分の人間性を開示するのに長い時間がかかる。自分の性質、例えば趣味は何で、どんな音楽が好きで、どんな本が好きかなど、そういったことについても自信がないので、相手の話を聞いて共感することは多いが、自分の話を自分からして、共感ないし受け入れてもらうという体験が少ない。そのためある程度仲良くなったと思った人との関係性の中でも、孤独感を感じることは少なくない。第二に、自己主張をすることができない。自分の性格や性質についてなにか自分が気に入らないことを言われたときも、それに対して批判をすることができず、そのまま心に長期的な傷を負うことが多い。もちろんこれも自分の意見や考えがほかの人に受け入れてもらえる自信がないことが関係している。笑いの空間を悪い雰囲気にしないで反論するコミュニケーションスキルがまだ身につけられていないこともあるだろう。また、人からの頼みにノーと言えないことが多く、その人に対して一方的に恨みや憎しみを抱いてしまうこともある。それはその人との交流を遠ざけ、人間関係の縮小化を促す。ノーと言えないのも自信のなさが原因だ。ノーと言って断った程度で嫌われてしまうのではないか、という自分への価値への見誤りである。
このように自信の欠如こそ私が抱える本質的な問題であり、これを解決あるいは改善することが人生をより豊かな色彩にしていくと思われる。これには、自分を客観的に見つめなおす努力が必要だと思う。自分に対する主観的で間違った思いこみ、例えば自分はつまらない人間であるとか、自分は頭が悪い人間だとか、そういう自己評価を下げているものを意識的に消し去っていかなければならない。客観的に物事を見ることができるようになったら、また一つ成熟したと言えるのかもしれない。

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