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生きるよすがとしての山岳

6月もまだ半ばだったとき、大学の図書館でうろちょろしていたら、目が合った。このタイトルと自分の興味がマッチして手に取った。こういうことは誰にでもよくある事だと思う。

「山岳信仰」この本を見つけたのは確か「神話、宗教、哲学」というコーナーだった。
自分にはよく、一時の単発的なごく短いブームが訪れることがあるが、今回はそれが山岳、信仰だったのだ。(結局ブームにはならなかったが)
なぜ、このようなブームが来たのかは自分でもよくわかっていない。宗教に興味はないし、無神論者ではあるけれど、宗教の背後にあるストーリーに興味があったのかもしれない。あるいは単に「山岳を信仰するってなんだ?」と疑問を抱いただけなのかもしれない。結局、この本は読まなかったが「山岳信仰」というワードだけは、いや頭の中にこびりついた。

しかし、自分にとって山岳は一種の拠りどころであることは間違いない。日常に疲れたら、よく自然を求めるし、実際に自然と触れ合うと心が落ち着く。さらに、山に登ろうものなら、都会の喧騒によって削られた感性や身体性を取り戻すような感覚を覚える。だからしょっちゅう山に登りたいものだが、なかなかそうも行かない。なので身近な公園に自然を求めて行ったり、図書館で山岳の図鑑や資料を眺めたりする。それだけでも十分心が落ち着く。だが、やはり本物の山岳、もっといえば実際に出向き、山に挑むというその行為には勝らないだろうとも思う。いずれにしても自分はなにかにつけ、山岳を拠り所としているし、そういう意味においては山岳を信仰しているのかもしれない。タイトルにもあるのだが自分にとって山岳は、生きるよすがとしての山岳なのだ。

みなさんは何を、生きるよすがとしているのだろうか?



「生きるよすが」という文脈で神話や宗教というものを見てみると、なるほどなと思う。つまりある人々は神話や宗教を自らの拠り所としているのだと。もちろんこれが全てではないと思うが。

山に登っていると当然、危険がつきまとう。
一度間違いを犯せば即座に死んでしまうような危険な場所もあるし、何度か死にそうになったことがある。そういう経験をすると、自分という存在がいかに小さな存在であるかを思い知らされる。それと共に、山という存在に対して畏敬の念を感じるようになる。この畏敬の念を感じるということにおいて、神話や宗教も同じであるように感じる。
つまりどちらも人智を超えた存在であるように。しかし、山岳は確かにそこに存在しているが、神話や宗教は実体がない。神話や宗教には実体が無いがある種の人々はそれを拠り所にするし、それに対して畏敬の念を感じる。これは不思議なことだと思う。ここまで考えると頭がパンクしそうになる。なぜ人は実在しないものに対してそこまで熱中するのだろうか。

これに対する自分の一つの結論は、
「ストーリー」だと思う。神話や宗教には強力なストーリーがあり、またそれを語る者がいたはずだ。神話はまんまストーリーだし、キリスト教の聖書もいくつものショートストーリーになっている。つまり、ある種の人々は人智を超えた「ストーリー」に対して畏敬の念を感じ、それを拠り所としているのだろうか?
ただ、ストーリーといってもこれらはいずれもフィクションで、少なからず脚色しているだろうと思う。ノンフィクションがここまでの影響力を持つ例は思いつかない。

いずれにしてもストーリーとはあまり注目を集めないものの、日常にはあらゆるストーリーが溢れているし、その影響は少なからず受けていると思う。考えてみればストーリーを語るのは人間だけだし。ストーリーの力は思ったよりも大きいのかもしれない。

いずれちゃんとストーリーについても考えてみたい。

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