にっがい
春は彼を連れてくる。
彼は、いつもコーヒーをブラックで注文する。
にっがいやつ。
にっがいやつを机に置いて、真剣にパソコンをカタカタ打つのだ。
陽の光が彼の横顔に差し込んで、それはそれは、
綺麗なのだ。
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一昨年。
初めて彼を見かけた時、私は高一で、バイト始めたてで、にっがいコーヒーを飲めなかった。
その黒い液体は、ただの闇でしかなかった。
春が夏に変わると彼は去っていく。
カフェのマスターの話によると、
田舎の町に彼がやってくるのは春の間だけ、
この地域に咲く植物を研究するため、
なのだそうだ。
ずるずるとバイトを続けること、3年目。
大学生になったら、私はこの町を出て都会で暮らすつもりだ。
ようやく、にっがいコーヒーの魅力が少し分かってきた。
その深い液体は、彼の瞳のように深かった。
私はバイトのシフトを増やした。
だって、このバイトもあと1年しかできないから。
周りにはそう言ったが、本当は彼に会う時間を増やしたかった。
私は決めていた。
今年がラストチャンス。
彼に話しかけて、彼と仲良くなって、彼にこの想いを伝えてみる。
今年も、春をまとって、彼がやってきた。
「コーヒー、ひとつ」
彼は、一年ぶりでも何の特別感もない言い方をした。
「お久しぶりです。ブラックコーヒーですね」
私は息が詰まる思いで、答えた。
お久しぶりです、それだけなのに。
彼は、 ん? と片眉を上げた。
ドキドキした。
「えっと、去年も一昨年も来てくださいましたよね?」
「あ、いや、ブラックじゃなくて、ミルクもつけてもらえますか?」
彼は丁寧にそう言った。
にっがいの、の気分ではなかったのだろうか。
「あ、すいません!」
「あ、そうか、そうですよね。
僕、去年とかはずっとブラックでしたもんね」
彼が照れたように笑った。
私は舞い上がった。
「たまには、苦くないのを飲みたい気分になりますよね!」
「いや、違うんです。
妻がミルクを入れる派で、僕も付き合ってるうちにミルク派になって」
「つま………」
「はい。なのでミルクもお願いします」
彼はそう言って会釈すると、パソコンを開いた。
春の日差しが
その画面に反射して、目に刺さった。
カタカタカタ。
それは、私の待ち焦がれていた春の景色だった。
コーヒーの色と彼の薬指を除いて。
私は夏を待たずに、バイトを辞めた。
都会の大学を目指すんだから、勉強に専念するのだ。
周りには、そう言った。