短編小説「氷の雨」
今年の冬は本当に冷える。
去年はこんなに寒くなかったはずなのに。
気候変動や異常気象はもう俺が子供の頃からワイドショーの常連ネタだったと思うが、いよいよ現実が追い付いてきたのだ。
今だって、たかがサークル仲間のボロアパートを覗きに行くだけのことで、こんな防寒服を着なくちゃならない。極北仕様の重装備だ。
さびた階段をどしどしと登って202と書かれた汚いドアをノックする。
「出てこい狛北。居るのは分かってるんだぞ。」
「・・・・・・・・」
返事はない。しかし部屋の中にはいるはずだ。仕方ない。
「タバコの配給があったぜ。要らねえのか?」
・・・どたばたと音がしたあと、少しだけドアが開く。
「どうせワームかバナナだろ?そんなもんタバコじゃねえよ。」
狛北はチェーンを掛けたドアの隙間から髭ずらを出して文句を垂れる。
「ところがどっこい、本物だよ。島田教授のご愛用、ザ・ピース。研究室で
拾ってきた。」
紺色のボックスを顔の前で振ってやると、狛北は猫のようにそれを目で追った。そしてにやりと笑うと、チェーンを外してドアを大きく開けて俺を招き入れた。
「なにが配給だ。島田のデスクからくすねてきたんだろ。コソ泥め。」
「大学ってのは生徒に開かれた場所だぜ。研究室のデスクの引き出しだって同じはずだ。」
「タバコは研究設備か?」
「無きゃ始まらん。」
「は、そりゃあ違いない。」
ゴミの散らばった居間で炬燵に入りながら、二人でタバコに火をつける。久々のタバコが肺に沁みる。実にたまらない。狛北の目じりには涙さえ浮かんでいるようだった
「うまいな。やっぱりタバコはこういう味だよなあ。」
「島田の奴はこれを毎日吸ってるんだろうな。まだまだ引き出しに貯めてあ
った。」
「こっちは明日の飯どころか、今日の水代も払えねえのにな。フゥー・・・だがまあ、文化人が有難がられるのは国が豊かな証拠だよ。懐でなく教養とか人情がさ。」
「ま、それは同感だ。」
ヤニで汚れた天井に向けて煙を吐きながら、灰皿に灰を落とす。
「・・・ところで狛北。人情というならばよ、借りた金を返すのは、世界共通の人情なんじゃないのか?」
俺がそう言うと、狛北は指に挟んだタバコの先から登る煙を眺めてながら笑った。
「くれてやるつもりで貸した金だが、返す気もねえんじゃ話にならねえ。」
「・・・まあ、その通りだな。」
狛北はタバコをふかしながら話し始める。
「人情だけじゃあ生きて行かれぬとか言うやつも時々いるが、そういうやつこそ、案外人情に生かされているものさ。人情、つまりは人の道理は簡単に捨てられるもんじゃないし、捨てちゃいけない。」
タバコを灰皿に押し付けて炬燵から出ると、狛北はタンスから一つの封筒を引っ張り出してきた。
「なんだそりゃ。へそくりなんぞする余裕があったのか。」
「違う。中身は金じゃない。」
そう言うと狛北は封筒から一枚の紙を出した。それは確かに金ではなく、何かの契約書のようだった。
「おれは借用書を渡した覚えはないが。」
「借用書じゃない。これは証券だ。」
「証券?」
「そう。株券と言った方がわかりやすいか。」
「株だとぉ? お前、借りた金で株なんぞ買ったのか。そんなもんで金が返せると思ってるのか?」
俺もタバコを火をつぶして、炬燵の上に身を乗り出す。
「待て待て。お前の言いたいことは分かる。株は金持ちがやるもので、貧乏人が儲けられる物ではないと言いたいんだろ。そんなことは分かってる。」
「わかってるならどうして賭ける?借金を博打で返そうなんて、お前はそんなに馬鹿だったのか。」
「落ち着けよ。これはお前が思ってるような短気な賭けじゃないんだ。」
狛北はまた炬燵を離れて、どこからかノートといくつかの紙を引っ張り出してくる。
「いいか。この株は必ず上がる。きちんと理屈があってそう言ってる。今の うちに買いあさっておけばきっと相当な金になる。」
そういいながら狛北はノートに書かれた数字と、紙に書かれたグラフや天気図を解説し始めた。
が、正直言ってほとんど何を言っているのか理解しがたかった。
「つまり、これから何が起きるんだ。」
そう聞くと、狛北は得意げな顔をする。
「雹だよ。雹が降る。」
「そうか。なら今日は早め帰らなきゃな。」
「ちがうちがう。そうじゃない。今日降るんじゃない。それにただの雹じゃないんだ。でかいんだよ。雹の粒が。」
「そりゃ、でかい雹が降ることだってあるだろうが。」
「確かに、大きさだけなら直径1mの雹が降ったことだって過去にはある。
俺が言っている雹はそこまで大きいわけじゃない。せいぜいゴルフボール大だ」
「それじゃあその、そこまで大きくない雹が降って何が困るんだよ。」
「困るさ。ゴルフボール大でも十分危険だ。頭に当たれば死ぬことだってある。それに俺が言いたいのは、その大きさの雹が、雨のようにいつでも降るようになるってことだ。」
「いつでも?」
「そうだ。雨もあられも雹に変わる。ガラスを割り、人が殺せるサイズのな。車だってへこむ。」
「それは確かにまずい事態だが。それが正しいんなら、もっと世間が騒ぐはずだぜ。テレビもネットもいつも通り、島田だって何にも言ってない。あいつは気象学の権威だろ?」
「いいか。2019年7月29日、直径100メートルを超える小惑星が地上7万2000キロまで接近し、秒速20キロメートルで通過したことがあった。もし地球に衝突していれば東京都とほぼ同規模の範囲を壊滅させた可能性もあった事件だ。」
「いきなりどうした。」
「しかし、その事実が分かったのは小惑星通過の一日前、人々に知らされたのは通過した後のことだった。予想や予測は決して万能じゃない。自然現象は事前に分かることばかりではないんだ。時に教授やメディアよりも、自分を信じるべき時があるのだよ。」
「・・・・・・。」
気持ち悪いくらい熱く語る狛北の言葉が正しいのかどうか、俺には分からなかった。俺に気象学の知識はない。
しかし、狛北の言葉を妄想と断ずるのは簡単ではない。
この狛北という男は、学生ながらすでに気象学会の最先端を走る研究者として広く認められており、あの厳格な島田教授をして、その暴虐無人の振る舞いを黙認されるほどの秀才なのだ。
俺は新しいタバコに火をつけて、深く煙を飲み込んだ。
「分かったよ。雹が降るってのはよくわかった。問題はその雹とこの株券の
関係だ。なあ、その株はどんな会社なんだ?」
「シェルターさ。」
「シェルター?」
「ああ。この先の生活は雹に耐えうるシェルターの中に移る。間違いなく。」
狛北の顔からは熱狂的な自信を感じる。俺の理解の範疇を超えている以上、問題は信じるか否かだ。狛北に金を貸した時から、実は賭けをしてるのは俺の方だったのだ。
狛北は勝利を確信している。常人には不可能な確信を。ただ俺の目を見て
反応を待っている。
俺はタバコを加えたまま炬燵から立ち上がってドアへ向かう。
「おい。どこへ行くんだ。金はいいのか?」
尋ねる狛北には答えず、靴を履く。
「・・・タバコ忘れてるぞ。」
そう言われて振り返ると、狛北はタバコのボックスをにやけ顔の前でひらつかせていた。
分かって聞いているだろうのだろう
「いいんだ。」
ドアを開けながら、俺はカッコつけて言い捨てた。
「くれてやるつもりで持ってきたんだ。」
俺はまた防寒着のポケットに手を入れて、外を歩き始めた。
何年かたったが、まだ雹の季節はやってこない。
狛北と会うことは少なくなったが、あいつはまだあの株券を信じていて、方々から金を借りて買い増しを続けているらしい。
俺はもうどうでもよくなっているのだが、狛北と連絡を取る口実にちょうど良いので貸してよかったと思っている。
「ああ、はい。今出ますので。ええ、では後ほど。」
すっかり履き慣れてしまった革靴を履いて部屋を出ようとしたとき、一通の封筒を郵便受けに見つけた。
封筒を開けると、中身は札束とザ・ピースのボックスだった。
鞄も持たずにドアを開けて外の様子を見た俺は、しばらく立ち尽くしたあと、封筒の中のボックスを開けタバコに火をつける。
肺一杯に煙を吸い込み、曇天に向かって吐き出す。
紫煙の向こうの空からは轟音と共に、氷の雨が降っていた。
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