【無我】と釈迦と言う人
どうも、よく解らないので(笑)
調べてみました。
仏教が生まれた紀元前5世紀ごろのインドには【書く】という手段や文化がなく、釈迦の教えは弟子たちの口伝によって広められました。
その後、書物としても多くのものが作られましたが、それは異なる国や時代を越えて伝わる過程で当然、変化していきました。
今はチベット仏教がその流れを一番伝えていると言います。
チベット仏教は、今も本来の姿をかなり忠実に守っているとのこと。
2000年代に入ってから、何百冊にも及ぶこの時期の書物が、中国の寺院から発見されました。
おそらく、17世紀ごろにダライ・ラマが集めて隠しておいたものだろうと言われています。
仏教には【神】への信仰はありません。
普通の人々が修行、つまり自己改革をしてより良い人間になることが、仏教が目指す究極の到達点です。
そのキーワードは【無我】【無常】
どんなに裕福でも、病気や老いから逃れることはできません。
そもそも釈迦が、王子という地位や妻子を捨てて修行の旅に出たのは、そういった不安から解き放たれ、真の「安心」を得るためでした。
そうして仏教がたどり着いたのが【無我】
つまり「自分をなくす」という考え方です。
【自分】とは、生まれた時から持つ肉体や精神を、自分がそう認識しているだけで、客観的な実体として存在しているとは言えずそこにこだわっても仕方がありません。
釈迦が説いたのは、【自分】という思いを減らすこと。
そして、人の死など、物事には必ず終わりがあり、移ろい、無常だということ。
それは理屈ではわかっていても、容易には受け入れられないでしょう。
けれども、神のような超越的なものにすがるのではなく、現実を受け入れ
ひたすら自分の心の内で考えなければなりません。
そして【無我】とは、固定された自己の存在を否定し、すべてが絶えず変化しているという観点から自己を見ることを意味します。
難しいですが、それを意識していれば生き方が楽しくなるかもですね。(笑)
神にすがったりが嫌いなわたしは、宗教としてではなく、仏陀が哲学者、思想家だと思えるのです。
仏陀滅後、弟子たちが宗教にしてしまったのか?と(笑)
キリストにしても素晴らしい思想もあり矛盾もある。
釈迦の思想が【宗教】に変わった時点で、矛盾がい出ました。
例えば
「◯◯すると地獄に落ちる」
「他者に優しくすれば自分に徳が返ってくる」
自分が徳を積むために他者に優しくするのは
おかしいですよね?
【慈愛】から外れてしまいます。
慈愛は何も損得考えずにい出るもの。
【慈愛】を貫いたマザー・テレサ
彼女のようになりたいですね。
チベット仏教も【哲学として】素晴らしい教えですが聖水とか…。
どーも哲学から離れて、宗教がひとり歩きしてるような。(笑)
けれども、宗教に拠り所を見つけている方もいて、それはそれで良いのですね。
全ての哲学等から学ぶ。
そんな姿勢でありたいと思うのです。
ヒンドゥー教は【カースト】があり、法律的には(表面は?)カーストも禁止とされてるみたいですが、実際はまだカーストが健在とか。それで、どーも苦手です(笑)
イスラム教も変わってきて、過激派思想が紛争などを起こしています。
ひとつ事に拘る、視野をひとつに絞ってしまう、そんな怖さを感じるのです。
一番上の画像は釈迦生誕の地、の僧院。
画像はお借りしています。