そこにいること

折に触れて、我ながら不思議だなと感じる体験をすることがある。
何かを知覚した時、ごく稀に、それについて紆余曲折経て考えた上での断片的な結論めいた一文だけが先に降りて来て、その後で何故自分がそこに至ったのかを自分で検証して考えるのだ。自分の出した断片的な結論を、自分であれこれ推論を交えながら考察する。思考の過程や様式をわざわざ人と話す事もしないから、案外皆そうなのかもしれない。けれど自分では常々不思議な感覚に陥るし、こうしないと話が少々突飛になってしまうので先に断っておく。
ある日、信号待ちの交差点で何気なく目を遣ると、大きな交差点に面した一軒家があり、(こんな騒々しい所で大変だな)と思っていると、その二階の窓から中年の女性が交差点を眺めているのに気付く。
不意に「空間の占め方には人は無自覚で不平を言わないよな」といった文言が去来する。自分で思っていながら自分でその意味を咀嚼しようと努める。
人は様々な物事を選択して生きている。その "選択体" としての各々の選択のうち、最も複合したものが空間であり、それは即ち存在の仕方、とも言える。全ての選択の決算として表象しているのが、その瞬間毎の、その場、その空間なのではないだろうか。各々が学歴をつけ、それをもとに就職し、それをもとに住居を決め、といった様な無数の選択の結果としての常に更新される"たった今"。”そこにいる” こと。
命ある限り、常に更新され続ける選択体としての総決算。全てゆえあってそこにいる現在。そこに無自覚なのは絶えざる選択の積み上げによる複雑さに加えて、あまりに持続的に行われる選択作業による、息をする様な自然さの為だろう。何もせず佇んでいる時でさえ、”そこで” そうする事を選択している。
「何にもない一日だった」と嘆く———けれど、その日をなんでもない一日にするために、そこまでに多くの積み重ねがある。
我身の境遇を嘆く時もあるが、それは仕事であったり、人間関係であったり、収入であったり、もっと具体性のあるものに向けられている。けれどそれら全てが合算されて、その時その場で嘆いている。もし仮に、それら不満を解消していたならば、全く違った心持でそこではない場所にいるだろう。そういった理由で今いる空間それ自体には中々目がいかない。意識の俎上そじょうに上がって来ない。
翻って、冒頭の女性。その目に、その表情に、一切の感情は浮かび上がっていない。唯、眺めている。そしてそれを直覚して、のままで出て来たのが、件の「人は空間の占め方には無自覚であり、不平を言わない」という言葉なのだろう。
各々の感情は、もっと具体的な眼前の事物に振り分けられていく。”今そこにいること” 、それ自体に全部が含まれているのに。
けれど少しずつ蓄積した感情が些細なきっかけで爆発する時がある。その時こそが、空間に、”今そこにいること” 自体を自覚した時なのだと思う。そしてそれは全ての合算のために、途轍もなく烈しく、深い。

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