逃げ水

自分に少し意識の比重を多く分配してみると、日によって、言葉が内から湧き出てくる日があることに気付く。数日前にもあった上で、今日もだったので自覚せられたのかもしれない。そしてそんな日は、目や耳、その他あらゆる知覚すること、そしてそれに対する己の反応、心情、意見など、やむことなく心のうちで言葉を繋いでいる。今日の朝もそうだった。
”清冽な” といった口語的でない形容詞を自然と用いたり、少し客観によって見れば自己陶酔的な面も幾分かはあるのかもしれない。けれどそれ以上に、清冽を分解すれば抽出される要素———清らかさや、冷たさや、澄んだ感覚、湛える青の印象、澄んだ冬の空気———それら全てを一語でそこに置く感覚が心地よい。時には言語的な皮膚感覚で配した語に違和感を覚えることがあって、ただ難しい語を用いたかっただけで、虚栄心が勝ったのだと読み返してわかる時があるのも面白い。また時には目を背ける為の虚飾的難語で誤魔化していたり、論理の帳尻の為、より広義に、時には曖昧にする為の打算的難語に逃げていたり、など。
ただ、自分の中にもこうして波長の様なものがあって、今日みたいな日は常に書き記しておかなければ、どんどん零れていっていってしまう。
そうして得た感覚も、何か心を乱されることがあれば最後、すぐに機能不全に陥る。事実、こうして文章を書き連ねていたら、途中から頻繁に咳払いをする人物が隣席になり、意識したら最後、あの感覚は霧消してしまったようだ。イヤフォンで音を遮断したり、さまざま自衛は試みたが、どこまでいっても ”意識しないように、と意識している” が反響し続ける状態になり、以降漫然と過ごしてしまう。そしてこうして雨乞いの様にもう一度待ち方も分からず待っているが、もう頭の中の声は止み、聞こえてくるのは隣からの絶え間ない空咳だけだ。


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