ハッピーエンド
帰り路の耳元から「ハッピーエンド」という歌詞が流れてくる ——— ハッピーエンド。「ハッピー」と「エンド」。ハッピーなエンド。あまりに使われるものだから組み合わせで定番化し、一つの単語となったのだろう。けれど実際の終わりは ”幸せ” で幕が下りる方が少ないだろう。何しろ ”終わり” なのだから。それでもセンチメンタルエンドや、メランコリックエンドが定番化しないのは、そこに希いが込められているからだろう。そしてハッピーエンド以外の様々なエンドには口にするのを慎むことで、同じ様に希いを裏書きしているのだろう。
自身の回りに起こったエンドを集めてみても、やはりハッピーエンドは少ない。それ自体は。けれど何故だろう、どのエンドも「では完全に消去しますか」と問われても、絶対に固辞するだろうという確たるものがある。そのほとんどは塩っぱく、酸っぱく、苦々しくて、時に辛い。充分分かっている筈なのに、何日も巻かれた絆創膏の匂いを時折嗅いでしまうように、味わい直しては渋面を作るのだ。
色々なエンド ——— 完了、終了、満了、破局、離別、死別、不和、軋轢、全快、達成、満足、卒業、中止、断念。その多くはやはり胸が苦しくなるものばかりだ。けれどそれがあってこその今であると思えるし、そんな結果だったのに付き合ってくれた人たちも申し訳なくもありがたい。そう思える核があるならば、それらは全て裏返ってハッピーエンドなのだと気付く。過酷な環境でそう思えない人もいるだろう。そう考えると、幸いにも自分には思い出したくもない結末なんて、本当の意味で、無いと言える。これまで見送ってきた人たちも、悲しいけれど肯定している。仕方がない。死すら裏返せる、ハッピーエンド。何て強い言葉だろう。
多くのエンドは悲しさや悔しさや、ハッピーとは程遠い装いをしている。強面の主人、口の悪い女将さん。そこで怯んではならない。もう一歩踏み込んでいくと、実はその多くを肯定してくれていることに気付く。ハッピーエンドだったと気付く。
そしてそう思える自分。どんなに嫌な事がある前日の夜も、押し潰されそうだと感じながらも、それでも明日が来ることを疑ってはいない。嫌な明日を迎える事を大前提として悩んでいる。そう考えて、自分で自分に「お前もなかなか図太いし、前向きじゃないか」とほくそ笑む。